2014年6月23日月曜日

A Farewell to Twitter





ツイッターをやめた。
理由はいくつかあるが、見たくないものを見ずにいられなくなってしまったから、というのが一番大きいように思う。

私がツイッターを始めたのは今から五、六年前、中学三年生のときだった。
mixiが衰退しはじめて次の拠り所を探していたときに、一人の友達がツイッターという新しい場所を提案し、みんなで移行した。教室の入り口で、IDを何にするかなんていう話をしたときの情景を、何故かはっきりと覚えている。

初めは友達と話すだけだったツイッターも、美味しいお店を探したり、素敵なことを書く人を見つけたりするために使えるのだと知り、確かに私の世界を広げた。ツイッターはまた、「友達」の垣根を低くしたと思う。友達の友達は友達、のようなスタンスを許した。直接話したことはないれけどツイートは見ている、という人間を増やした。人と人とのゆるい繋がりを保てる、素敵で便利なツールだった。

しかしその垣根の低さは、容易に人を傷付け、悪態をつき、汚い言葉を並べるようなユーザーを野放しにする他なかった。結局のところ、これだけインターネットが普及しても、画面の向こうに生身の人間がいるということを忘れてしまう人は絶えなかった。また、140字という字数制限は人間の様々な要素を凝縮させた。インターネット的人間関係、自虐、非難、論理性を伴わない悪意の羅列、私にとって「綺麗ではない」ものがあまりにも多すぎた。
私はそういうものを見るのに疲れた。避けようと思っても、湧き出るように生産され放出されるそれらはいくらでも私の視界を濁した。

最近、周りの人が何人かツイッターをやめていった。ある同い年の男の子はその理由を「例えば『○○が楽しかった』というツイートを見たら、この子は『○○を楽しんでいる子』と思われたいんだなあと思わずにいられなくなり、そういう自意識にばかり目がいってしまうようになってつらかったから」だと言っていた。
ある先輩は、「時間の無駄だったから」と即答した。見てごらん、ツイッターやってるのって学生ばっかりでしょう、そういうことだよ。確かにそうかもしれない、と思った。全てがそうとは限らないけれど。

そんな人たちに気持ちを後押しされたのもあって、私もツイッターをやめることに決めた。ツイッターで得られる有益な情報にアクセスできないのは困るかなと思っていたが、今のところそんなことはないように思う。良質で密度の高い情報は、140字という制限を受ける媒体でだけ公開されることなどないというのは、考えてみれば当然であった。コミュニケーションツールとしては、LINEとフェイスブックのメッセンジャーを使う頻度が高くなった程度だ。

情報の取得も、コミュニケーションも、その方法はいくらでもある。
私は自分が好ましいと思う媒体を選びたいと思う。

さようなら@karen_luv、また会う日まで。