2015年11月10日火曜日

ニキ・ド・サンファル展


 国立新美術館で開催中の「ニキ・ド・サンファル展」へ行ってきた。一言で言うならば本当に良かった、自分の人生の分岐点となる展覧会の一つになったと思う。展覧会全体の感想というより、私のこの興奮と今感じている肯定感についてのブログになってしまうが、流れを追いつつ思い返したい。



 展示は「アンファン・テリブル─反抗するアーティスト」から始まる。1953年、23歳の時に職業としての芸術家を選択したニキは、50年代後半にはピストルや剃刀を直接キャンバスに貼り付けるコラージュを製作する。61年2月から、彼女を一躍有名にした「射撃絵画」の製作がスタート。これはキャンバスに様々なオブジェ(人形やおもちゃ、生活雑貨など)とカラフルな絵の具の入ったボトルを貼り付けて石膏を掛け、それをニキが撃ち抜くことで絵の具が飛び散るというもの。
 これを見るとまず、いや、あまりに巨大な自己矛盾ではないか?という印象を受ける。ピストルの破壊性を非難する作品を続けたあとに、「射撃絵画」は大聖堂に銃口を向けているのだ。この射撃は、絵画と彫刻の境界超越を示したと説明されており、あの一撃一撃は「(11歳のニキに性的暴行を加えた)父親への」、「自分を抑圧する男性性への」、そして「それらを甘んじて受け入れた過去の自分への」ものだったのかもしれない、と解説が為されているのだけれど、しかし真っ白なオブジェに飛び散るブルーやグリーンや鮮やかな赤の絵の具はあまりにポップでカラフルで、結局その暴力性にその華やかさを持って回帰してしまうのかという思いが拭いきれない…。そしてなにより社会性が強すぎる。もしこの展示が「(多くの場合暴力性を伴う)家父長制的社会の男性性と闘い続けた女性芸術家ニキ・ド・サンファルの先進性」みたいな方向に結論づけられていたら嫌だな…と思いながら作品を見た。



 そのあとに続く「女たちという問題」。ニキは1963年10月、射撃を続けることにドラック漬けのような感覚を覚え「射撃絵画」に終止符を打つ。この頃ボーヴォワール『第二の性』を読み、強く影響を受けたと説明されている。
 上の「赤い魔女」は、女性は単なる聖母マリア(中央)としての存在ではあり得ず、赤ん坊のようであったり(左ひざ)、男性を誘惑する娼婦のようであったり(魔女の左手は性器に向けられている)するのだ、これが私自身なのだ、と訴えた作品であった。ニキはのちに自分の作ってきた女性たちは自分自身であり、彼女たちは私とともに成長してきたのだ、というようなことを語っていた(うろ覚え)。
 しかしこの時期の作品はあまりにグロテスクに過ぎる。女性たちは涙を流し、血を流し、出産という事象と闘い、男性性と闘い、苦悩に満ちている。




 そして、ニキのイメージとなっている「ナナ」シリーズだ。本当に、完全に、ガラッと作品が変わる。明るくて、前向きで、開放的で、自分たちの人生そのものを全肯定するかのような女性像。そのきっかけは「友人の妊娠」と説明されている。友人の!妊娠!
 「ナナ」たちは見ているだけで楽しく、一緒に踊りたくなるような空気感をまとっている。そしてこの頃から、ニキは男性を女性を抑圧するのではなく「バランスをとってともに暮らしていく」存在として認識し始めたように思う。例えば右の写真は「恋する鳥」という作品で、男性性を象徴する鳥と「ナナ」を共存させているように、女性性を一方的に語らなくなる。
ニキは"Calling Attention to Art"のインタビューで、今の社会に女性は実際には存在していないも等しい、だって社会の重要な決定ごとにはなに一つ関与できないんだもの、と語ったあと、こうも言っている。

"I think that men, that the feminine side of men is also crushed. He's as much a victim of this world he's created as we are."

 男性の中の女性性、また女性の中の男性性、これらを私たちはジェンダー論争においてきちんと認識したことがあっただろうか?そして、この存在こそが私たちの唯一の救いなのではないだろうか?
 現代社会は中心部において男性性を偏重している、ということは否定できないだろうとやはり思う。私はこれは仕方ないことだと思っていて、というのも(人生の主目的とされることの多い)一般的な労働において、男性性が強いことは明らかに優位となるからだ。しかし、男性たちもこの社会の在り方に苦しめられることがあるということを認識し、男女は「バランスをとってともに暮らしていく」ことができるというのは非常に大きな希望であるし、このインタビューを見て私の初めの懸念(この展示が「(多くの場合暴力性を伴う)家父長制的社会の男性性と闘い続けた女性芸術家ニキ・ド・サンファルの先進性」みたいな方向に結論づけられるのではないかというもの)は杞憂に終わったことを確信したのだった。



 私たちにとって、芸術作品を目にしたり、小説や文学を読むことというのは、結局のところ自分の経験に対する追体験でしかない。追体験でしかないが、この行為は自分の過去の整理と意味の確認、将来への紐付けという、私たちの人生を形成する大きな要因となり得るのだ。

 私にとってこの展示は救いだった。女性としての自分の存在が22歳現在でも確立できていないこと、性というものについて一つのはっきりとした答えを持っていないこと、こういたテーマは他の女性たちはあるいはもっと幼い頃に解決しているのではないか?いつまでもこんなことに囚われているのは非常につまらないことなのではないか?という思いが私にはあった。しかし、このテーマはニキ・ド・サンファルという一人の芸術家の、一人の女性の、一人の人間の、長い人生をかける主題となるのだということ、そしてそれは月日を経るにつれて必ず変化するものであること、答えなど存在しない、もしかしたら初めから必要ないのかもしれないということを今日私は理解したはずだ。こういうことを「理解する」のはなかなか難しいことで、自分の体に落とし込み、自分の常識の中に組み込むのはやはり体感によるところが大きい。月並みな言い方をすれば、「頭では分かっていても」本当に理解はできていないということは実際あるのだ。その理解のために芸術を体験することは、大きな助けになるということを知った展示だった。
 いいじゃないか、私たちは女性で、男性で、ともに暮らしていく存在なのだ。前を向いて、胸を張って、明日も生きていこう。


2015年11月3日火曜日

フェミニズムの終焉と男女の平等





 先日、『マイ・インターン』を観た。ロバート・デ・ニーロの紳士っぷりと艶のあるアン・ハサウェイ、美しいNYの街並みを眺めているだけで心踊る映画で、ある意味で『プラダを着た悪魔』の続編であると言われるように、現代における働く女性の在り方が主題に据えられていた。

 ジュールズ(アン・ハサウェイ)はファッション通販サイトの社長で、所謂ITベンチャー業界の成功者だ。彼女はすでに結婚していて、妻を支えるために専業主夫となった夫と幼稚園に通う娘ともに暮らしている。全てが順調に見えるジュールズのもとへ、ある日シニア・インターンのベン(ロバート・デ・ニーロ)が雇われる。初めは旧来的な"紳士"であるベンのやり方に苛立ちを覚えるジュールズだったが、徐々に人生の先輩としてのベンの助言に支えられるようになる。

 総括して、「アメリカでもこういう状態なんだな」というのが一つの大きな感想だった。つまり、日本で今行き詰まっている"働く女性"の問題に対する明確な答えというのが存在していない。映画が始まった時点でアン・ハサウェイ演じるジュールズに子どもがいるというのはある意味この問題の最大の課題を飛ばしてしまったことになるし、夫が専業主夫だというのはだいぶ張り切った設定だと思うけれども、結局彼は自分の「男性性への評価」を求めて浮気をする。そして、ジェールズが夫の浮気を「自分が仕事ばかりで忙しく家庭を大切にしなかったせい」だと結論付け、外部からCEOを呼ぼうと決めるも夫の謝罪と「自分のやりたいことを大切にしてくれ」という言葉でハッピーエンドとなる。なんだか、こう、筋が通らない。男女という性の在り方の過渡期において、旧来的・家父長的なものを否定するのであれば、新しく示される男性像・女性像というのは前時代のものより優れていると、少なくとも現在の時点では考えられるものであるべきではないだろうか?

 さて、私はこの投稿において、映画の感想ではなく、私たちの社会共同体における男女平等の在り方とそれに密接に関わってきたフェミニズムというものを考えたい。なお、以下の文章の中で私は"男性と同様に"働く職種を総合職、所謂事務職に当たるものを一般職と書いている。金融や一部メーカーなどの業界において専門職と呼ばれる職種は総合職に含めている。


 私は日本、少なくとも東京においてフェミニズムはすでに終焉を迎えつつあると感じている。その理由というのは、大きく分けて3つになるように思う。

①議論が個人的・即時的なものに留まり、結局のところ最終的に何を求めているのか、今求めているものの「その先になにがあるのか」を明示できなかった。

②蓋を開けてみたら思いの外アクティビストたちのいうような「男女平等」を望む女性が少なく(就職活動中に感じたことだが、女子学生はそもそも総合職を"受けていない"のだ)、いつまでも活動する主語を「女性」にし続けるのは無理があった。

③イメージ戦略の失敗。自分たちに賛同しない女性は馬鹿とさえ言わんばかりの言動を行うなど、不平を撒き散らすだけに見える人々をきちんとフェミニズムの文脈から排斥できなかった。またそのため、社会の構成員全員に関わる問題にも関わらず、関心の薄い層を抱え込めなかった。(例えば、LGBTが社会的地位を獲得しつつあるのは、そうでない人たちと特に利害の衝突がなかったことが大きいと考えている。)

 最も大切なのは①で、女性達は結局「子どもを産む」という男性に代替しようのない行為を受け入れざるを得ない以上、当然ながらここに何らかの男女差が生じるということをフェミニズムのシステムに上手く組み込めなかった。(というかもう結婚や子どもについて、全く悪意なくとも他人が話題に触れることすら許されない状況を作ってしまったのは社会共同体としてはひとつの失敗ではないかと思う。)35歳を超えて子どもを産むことは高齢出産と呼ばれる状況において、それを望むのであれば、私たちは大学を卒業してから(この時点で若くとも22歳だ)約10年間で何をしなければならないのか?もうこればかりは社会や男性を糾弾するのは全く無意味で─何故ならば私たちは私たち自身の人生を歩んでいるからだが─出産も含めて自分の人生を考える他どうしようもないのだ。そして、この人間の根源的行為がために、あらゆる男女差というものは発生し、それを極小化しようというのがフェミニズムの一つの目的だったはずだが、それは2015年現在行き詰まっている、と言って差し支えないだろう。
 あらゆるレイヤーにおいて、男女の収入が同じになったらなんだというのか?国の組織や企業における役員の人数が男女同数になることに、"その数を達成したこと"以上になんの意味があるというのか?この観点における「男女平等」とは、収入や人数のような数字の問題ではなく、「男女ともに自分の望む未来を選択する権利が与えられていること」だと私は思う。そしてその意味において、フェミニズムはすでに一定の成果をあげている。私たちは女性であるという理由で、男性と同じ職種にアプライする権利を剥奪されることなどもはやないのだ。

 ②に関して言えば、私にとってとても意外なことであったしまたこの投稿の結論に行き着く大きな理由ともなったことだが、広く一般に女性たちはアクティビストの主張するような男女平等、つまり女性が男性と同じ領域で、同じ給料で、同じ責任を持つという環境に身を置くことを望んでいない。これはおそらく多くの女性は男性のような権力欲を持たないからである。(私はこういう"男女の性差による考え方の違い"のようなことをいうのを嫌ってきたが、実際のところそれは存在するのかもしれないと最近感じている。ただしこれは必ずしもこれは生まれ持った性による差ではなく、男として・女として社会共同体の中で二十数年の人生を歩む中で自然と獲得した差であると私は考えていることを付け加えておきたい。)例えば一定水準を超えると、昇進はしても得られる収入が大きく変化するわけではないという状況は往々にして存在するのであって、ただ肩書きが変わり自らの負う責任が増大することを忌避する女性は男性より多いだろう。
 少し話は脱線するが、先日ある20代後半の男性と話していた時に、彼は自分が「何者にもなれない」ことを非常に恐れているというようなことを言っていた。彼にとってはその何者かになるための手段が仕事に当たるわけで、自分ではそれが「男は子どもを産めないからだ」と思う、と話した。私が今この話を書いたのは、こういうことをいう男性の数が彼1人や2人ではなく、少なくとも私の周りにそれなりに散見されるからだ。さて、しかし私を含め女性でこの「何者にもなれない可能性」を恐れる人を私はこの短い人生の中で見たことがない。そしてこの男性の方が抱きやすい(と考えられる)恐怖は権力欲を掻き立てるものになり得ないだろうか?

 ③についての話をしたい。「自分たちに賛同しない女性は馬鹿とさえ言わんばかりの言動を行うなど、不平を撒き散らすだけに見える人々」というのは、声が大きいために強大な存在感を示しており、一部では彼女たちこそがフェミニズムを率いていると見なされていることも理解できるほどだ。しかしフェミニズムは本来であれば彼女たちをきちんと排斥しなければならなかった。味方を増やすためには戦略が必要で、こういった存在は明らかにフェミニズム本流にとってマイナスとなるからだ。


 冒頭でフェミニズムの"終焉"と書いたが、人間が生物として現在のような形をとっている2015年において、あるいは達成されうる最高水準までたどり着いたと言ってもいい。制度とシステムの限界ではない。私たち人間の限界なのだと思う。『マイ・インターン』の感想もこれに繋がっていて、なるほどこの行き詰まった感じは日本社会の問題ではなくアメリカでも同じで、ある種普遍性のあるものなのだなと思った。私がこの投稿に『マイ・インターン』の話を持ち込んだのはこのためである。

 (大学を卒業し、総合職というキャリアを考えるレイヤーに存在する女性たちの)個人の人生という観点から言えば、もし本人が出産を望んでいるのなら、出来るだけ早く結婚し、出来るだけ早く子どもを産むことが一つの正解なのではないかと私は考えている。もちろん結婚も出産も一人で出来ることではないので、可能であるならば、が前提ではあるが。というのも、新卒で入社した会社の中である程度の地位を確立させるためには少なくとも数年は必要であるはずで(一つ目のキャリアステップとして初めの6年程度を設定している企業が多いように感じた)つまり、気付けば30歳だ。自分の望むタイミングで簡単に妊娠することはそう容易ではないのと、人間はそう単純な感情に支配されていないので、「ここまで来たのに今さら抜けられない」「自分が産休に入っている間に同期が先に進んでしまうのが怖い」と感じることがないとは私は考えられない。そんなことをしているうちに、身体的に産めない年齢に入ってしまうことだって大いにあり得ることだ。

 一方で社会全体の立場から考えると、今後私たちの社会の目指すものが丸っきり変わってしまうとなれば話は別だが、少なくとも人口を維持することで共同体を維持しようという今の方針が続くのであれば、私たちは子どもを産むことを否定するわけにはいかない。女性が"産まない"ことによる男女平等というのはあまり現実性がない。私がたまに言っていることだが、それゆえに「結婚・出産・育児を勧める言説にマジギレする人たち」というのは見ていて悲しいとさえ思う。身体的な性差の完全な否定による防護を行なうとき、彼女たちのすぐ後ろには高い壁が聳えているからだ。


最後に余談となるが、私は出産(あるいは人間の誕生)という行為は社会においてある程度特別視されるべきだと思っている─今後も個人主義が進むであろう状況において、これは社会倫理を保つ最後の砦になるような気がしているからだ。