東京文化会館での待ち合わせまで一時間ある。
私は青山で二つの小さな展示を見たあと、半端な空き時間を潰すために以前夜に一度訪れた喫茶店へ入った。
店の一番奥、窓際の席に着くと若い男性がメニューと水のグラス、ガラス製の灰皿を私のテーブルに置いた。
私のために置かれた灰皿。
私は煙草を吸わない。
この店が喫茶店であるからには、やってくる客の大半が喫煙者であることもほとんど当然であり、ここに灰皿が置かれることと私個人がそれを必要としているかどうかということは全く関係がない。けれど、もともとテーブルに置いてあったのではなく、私のために置かれた灰皿の存在感は、日頃目にするそれとは比べ物にならないくらい大きかった。
私自身もまた喫茶店でアルバイトをしている。
新橋寄りの銀座に40年間構えているその店は、平日の夜になるとクラブの女性たちでいっぱいになる。
彼女たちは皆美しい。美しさそのものであるとさえ思う。
毎日違う着物を鮮やかに纏い、無駄なく、しっかりとアップスタイルにした髪、一瞬の隙も与えない完成された化粧。彼女たちを連れて歩くことが、彼女たちの視線の先に座ることが、あの街の男性のステータスになっていることも、私は理解させられてしまう。
彼女たちの多くは煙草を吸う。
艶のあるネイルカラーを施した彼女たちの細く長い指が、真っ赤な口紅の付いた煙草を気怠そうに口元から離すあの芳香すら感じさせる色気を、私は知っている。
しかしこの艶やかさは、美しさは、いま私が「彼女たち」と呼んでいる女性たちの虚飾である──「彼女たち」にとってあの場所は仕事場であり、「彼女たち」はあの場所ではないどこかに存在するために華やかさを演じている。
いま私の手許には、サン・テグジュペリの『夜間飛行』が置かれている。
この本の巻頭に、アンドレ・ジッドがこう書いている。
「『夜間飛行』の主人公は、非人情になることなしに、自分を超人間的な美徳にまで高めている。この生彩ある小説にあって、いちばん僕の気に入るのは、その崇高な点だ。人間の弱点や、ふしだらや、自堕落なぞは、世人の親しく見聞して知っているところでもあり、また今日の文学が、あまりにも巧みに描写提示してくれるところでもある。これに反して、人間の緊張した意志の力によってのみ到達できるあの自己超越の境地、あれこそ今日僕らが知りたいと思うところのものではないだろうか。」
崇高さ、である。
美しさは崇高さそのものだ、例えそれが目的ではなく手段であり、虚飾であるとしても。
しかし、その崇高なる美しさを以って「自己超越の境地」に辿り着くことを目指すこと、それをこの人生の目的とすること、それは結果として「リアルのなかのロマンス」を体現するのではないか?
隣のテーブルに腰掛けた男性が、指輪を嵌めた手で少し潰れた白い小箱から一本の煙草を取り出したのを見て、私は店を出た。