先日、『マイ・インターン』を観た。ロバート・デ・ニーロの紳士っぷりと艶のあるアン・ハサウェイ、美しいNYの街並みを眺めているだけで心踊る映画で、ある意味で『プラダを着た悪魔』の続編であると言われるように、現代における働く女性の在り方が主題に据えられていた。
ジュールズ(アン・ハサウェイ)はファッション通販サイトの社長で、所謂ITベンチャー業界の成功者だ。彼女はすでに結婚していて、妻を支えるために専業主夫となった夫と幼稚園に通う娘ともに暮らしている。全てが順調に見えるジュールズのもとへ、ある日シニア・インターンのベン(ロバート・デ・ニーロ)が雇われる。初めは旧来的な"紳士"であるベンのやり方に苛立ちを覚えるジュールズだったが、徐々に人生の先輩としてのベンの助言に支えられるようになる。
総括して、「アメリカでもこういう状態なんだな」というのが一つの大きな感想だった。つまり、日本で今行き詰まっている"働く女性"の問題に対する明確な答えというのが存在していない。映画が始まった時点でアン・ハサウェイ演じるジュールズに子どもがいるというのはある意味この問題の最大の課題を飛ばしてしまったことになるし、夫が専業主夫だというのはだいぶ張り切った設定だと思うけれども、結局彼は自分の「男性性への評価」を求めて浮気をする。そして、ジェールズが夫の浮気を「自分が仕事ばかりで忙しく家庭を大切にしなかったせい」だと結論付け、外部からCEOを呼ぼうと決めるも夫の謝罪と「自分のやりたいことを大切にしてくれ」という言葉でハッピーエンドとなる。なんだか、こう、筋が通らない。男女という性の在り方の過渡期において、旧来的・家父長的なものを否定するのであれば、新しく示される男性像・女性像というのは前時代のものより優れていると、少なくとも現在の時点では考えられるものであるべきではないだろうか?
さて、私はこの投稿において、映画の感想ではなく、私たちの社会共同体における男女平等の在り方とそれに密接に関わってきたフェミニズムというものを考えたい。なお、以下の文章の中で私は"男性と同様に"働く職種を総合職、所謂事務職に当たるものを一般職と書いている。金融や一部メーカーなどの業界において専門職と呼ばれる職種は総合職に含めている。
私は日本、少なくとも東京においてフェミニズムはすでに終焉を迎えつつあると感じている。その理由というのは、大きく分けて3つになるように思う。
①議論が個人的・即時的なものに留まり、結局のところ最終的に何を求めているのか、今求めているものの「その先になにがあるのか」を明示できなかった。
②蓋を開けてみたら思いの外アクティビストたちのいうような「男女平等」を望む女性が少なく(就職活動中に感じたことだが、女子学生はそもそも総合職を"受けていない"のだ)、いつまでも活動する主語を「女性」にし続けるのは無理があった。
③イメージ戦略の失敗。自分たちに賛同しない女性は馬鹿とさえ言わんばかりの言動を行うなど、不平を撒き散らすだけに見える人々をきちんとフェミニズムの文脈から排斥できなかった。またそのため、社会の構成員全員に関わる問題にも関わらず、関心の薄い層を抱え込めなかった。(例えば、LGBTが社会的地位を獲得しつつあるのは、そうでない人たちと特に利害の衝突がなかったことが大きいと考えている。)
最も大切なのは①で、女性達は結局「子どもを産む」という男性に代替しようのない行為を受け入れざるを得ない以上、当然ながらここに何らかの男女差が生じるということをフェミニズムのシステムに上手く組み込めなかった。(というかもう結婚や子どもについて、全く悪意なくとも他人が話題に触れることすら許されない状況を作ってしまったのは社会共同体としてはひとつの失敗ではないかと思う。)35歳を超えて子どもを産むことは高齢出産と呼ばれる状況において、それを望むのであれば、私たちは大学を卒業してから(この時点で若くとも22歳だ)約10年間で何をしなければならないのか?もうこればかりは社会や男性を糾弾するのは全く無意味で─何故ならば私たちは私たち自身の人生を歩んでいるからだが─出産も含めて自分の人生を考える他どうしようもないのだ。そして、この人間の根源的行為がために、あらゆる男女差というものは発生し、それを極小化しようというのがフェミニズムの一つの目的だったはずだが、それは2015年現在行き詰まっている、と言って差し支えないだろう。
あらゆるレイヤーにおいて、男女の収入が同じになったらなんだというのか?国の組織や企業における役員の人数が男女同数になることに、"その数を達成したこと"以上になんの意味があるというのか?この観点における「男女平等」とは、収入や人数のような数字の問題ではなく、「男女ともに自分の望む未来を選択する権利が与えられていること」だと私は思う。そしてその意味において、フェミニズムはすでに一定の成果をあげている。私たちは女性であるという理由で、男性と同じ職種にアプライする権利を剥奪されることなどもはやないのだ。
②に関して言えば、私にとってとても意外なことであったしまたこの投稿の結論に行き着く大きな理由ともなったことだが、広く一般に女性たちはアクティビストの主張するような男女平等、つまり女性が男性と同じ領域で、同じ給料で、同じ責任を持つという環境に身を置くことを望んでいない。これはおそらく多くの女性は男性のような権力欲を持たないからである。(私はこういう"男女の性差による考え方の違い"のようなことをいうのを嫌ってきたが、実際のところそれは存在するのかもしれないと最近感じている。ただしこれは必ずしもこれは生まれ持った性による差ではなく、男として・女として社会共同体の中で二十数年の人生を歩む中で自然と獲得した差であると私は考えていることを付け加えておきたい。)例えば一定水準を超えると、昇進はしても得られる収入が大きく変化するわけではないという状況は往々にして存在するのであって、ただ肩書きが変わり自らの負う責任が増大することを忌避する女性は男性より多いだろう。
少し話は脱線するが、先日ある20代後半の男性と話していた時に、彼は自分が「何者にもなれない」ことを非常に恐れているというようなことを言っていた。彼にとってはその何者かになるための手段が仕事に当たるわけで、自分ではそれが「男は子どもを産めないからだ」と思う、と話した。私が今この話を書いたのは、こういうことをいう男性の数が彼1人や2人ではなく、少なくとも私の周りにそれなりに散見されるからだ。さて、しかし私を含め女性でこの「何者にもなれない可能性」を恐れる人を私はこの短い人生の中で見たことがない。そしてこの男性の方が抱きやすい(と考えられる)恐怖は権力欲を掻き立てるものになり得ないだろうか?
③についての話をしたい。「自分たちに賛同しない女性は馬鹿とさえ言わんばかりの言動を行うなど、不平を撒き散らすだけに見える人々」というのは、声が大きいために強大な存在感を示しており、一部では彼女たちこそがフェミニズムを率いていると見なされていることも理解できるほどだ。しかしフェミニズムは本来であれば彼女たちをきちんと排斥しなければならなかった。味方を増やすためには戦略が必要で、こういった存在は明らかにフェミニズム本流にとってマイナスとなるからだ。
冒頭でフェミニズムの"終焉"と書いたが、人間が生物として現在のような形をとっている2015年において、あるいは達成されうる最高水準までたどり着いたと言ってもいい。制度とシステムの限界ではない。私たち人間の限界なのだと思う。『マイ・インターン』の感想もこれに繋がっていて、なるほどこの行き詰まった感じは日本社会の問題ではなくアメリカでも同じで、ある種普遍性のあるものなのだなと思った。私がこの投稿に『マイ・インターン』の話を持ち込んだのはこのためである。
(大学を卒業し、総合職というキャリアを考えるレイヤーに存在する女性たちの)個人の人生という観点から言えば、もし本人が出産を望んでいるのなら、出来るだけ早く結婚し、出来るだけ早く子どもを産むことが一つの正解なのではないかと私は考えている。もちろん結婚も出産も一人で出来ることではないので、可能であるならば、が前提ではあるが。というのも、新卒で入社した会社の中である程度の地位を確立させるためには少なくとも数年は必要であるはずで(一つ目のキャリアステップとして初めの6年程度を設定している企業が多いように感じた)つまり、気付けば30歳だ。自分の望むタイミングで簡単に妊娠することはそう容易ではないのと、人間はそう単純な感情に支配されていないので、「ここまで来たのに今さら抜けられない」「自分が産休に入っている間に同期が先に進んでしまうのが怖い」と感じることがないとは私は考えられない。そんなことをしているうちに、身体的に産めない年齢に入ってしまうことだって大いにあり得ることだ。
一方で社会全体の立場から考えると、今後私たちの社会の目指すものが丸っきり変わってしまうとなれば話は別だが、少なくとも人口を維持することで共同体を維持しようという今の方針が続くのであれば、私たちは子どもを産むことを否定するわけにはいかない。女性が"産まない"ことによる男女平等というのはあまり現実性がない。私がたまに言っていることだが、それゆえに「結婚・出産・育児を勧める言説にマジギレする人たち」というのは見ていて悲しいとさえ思う。身体的な性差の完全な否定による防護を行なうとき、彼女たちのすぐ後ろには高い壁が聳えているからだ。
最後に余談となるが、私は出産(あるいは人間の誕生)という行為は社会においてある程度特別視されるべきだと思っている─今後も個人主義が進むであろう状況において、これは社会倫理を保つ最後の砦になるような気がしているからだ。