2014年2月14日金曜日

honesty





これまで自分が正しいと思ってきたことが否定されるのはとても恐ろしいことです。それも、議論の末の否定ではなく、自分がそれまでと違うコミュニティに入ることで、また、違う人と深く接することで、彼らの「常識」にあっけなく否定されるのです。

私は中学高校時代を東京の片田舎の女子校で過ごしました。今思えば、中高というのはとても閉鎖的な空間で、私たちはそこで守られていたのでしょう。もちろん、当時はそんなことには気付かなかったのですけれど。
もうすぐ私が高校を卒業して三回目の春です。大学生になって三回目の春でもあります。この二年間、私は自分が「大学生」に染まらないように必死でした。大学も、大学の友人も好きですが、所謂「大学生」というものにとても抵抗感があるのです。
私にとっての正しさを作り上げたのは中高の友人と教師、そして両親祖父母でした。大学生らしさというのは、その正しさと対立するのです。友人のために尽くすこと。秘密を守ること。何かの目的に向けて全員で全力を注ぐこと。酒、煙草、性の排除。などなど。日頃こんなことを言葉にして意識しているわけでは全くないのですが、これが私の思う正しさでした。そしてそれが今、否定されているのです。

きっと私が友人にこのような話を相談されたら、今あなたはそこにいるのだからそのコミュニティの正しさに従う方が良いのではないかと答えるでしょう。客観的に見たら、そう思うのです。でも。今。それは嫌だと思って、机に向かっているのです。

結局のところ、社会のどこへいっても通じる唯一の「正しさ」というものは存在せず、故に私たちは「何が正しいか」ではなく「誰に正しいと思われたいか」を考える他ないように思います。私は誰に正しいと思われたいのかと考えると、何人かの顔が思い浮かびますが、その人々の中で既に正しさが一致していないとしたら。しかもそれが、とても重要なことについての認識だとしたら。
こんなことをしたら、あの人は悲しむだろうか。呆れるだろうか。でもそれが正しいからそうするべきだと、他の誰かは私に言うのです。

とても怖いのは、慣れることです。「まあいいか」と思うようになってしまうことです。最終的な結果がどうであれ、そんな風に流されてしまうのは絶対に嫌なのです。それが嫌で、必死で抵抗を続けているのです。



(写真:2013年1月、丸の内にて撮影)

2014年2月9日日曜日

a think about Gender equality




先日、友人がFacebookの投稿でこんなことを書いていた。

「大学の授業で、教師が日本における女性差別について語った際、日本に未だそのような差別があると前提にしていたのを疑問に感じた。私は日本に住んでいて差別を受けていると感じたことはなく、むしろ女性が権利を振りかざしているように思うことすらある。差別というのは嫌な気持ちになった程度ではなく生活に支障を来すものであり、『日本の女性は差別されている』と主張する女性は差別というものを甘く見すぎである。日本における女性差別の例としてしばしば国会議員の女性の割合が挙げられるが、職種によって男女の偏りが出るのは当然のことで、男女半々でなければ平等でないなどという考えはおかしい。」


彼女はジェンダー論の授業の後にこの投稿を書いたらしい。ジェンダー論を専門とする教授なのだから、その見方は職業的観点からするとまあ妥当であるとは思う。概してジェンダー論とは女性が弱い立場に立っていることを前提としているのだし。

彼女の言う通り、人数が男女半々でなければ平等ではないというのは全くの誤りであると思う。彼女が例にとった国会議員について言えば、被選挙権は男女等しく与えられているし、制度上女性の立場を弱めるような要素はない。
職種により男女比率に差が出るのは仕方のないことであり、それはこの社会を構成する人間一人ひとりが自分の望む職業を目指した結果として妥当である。人数に拘ると「男女比率を一定にしなければならないので女性であるあなたは国会議員の職に就きなさい」などというようなメッセージが暗に発せられる可能性も無きにしも非ずだ。それに、「政治に女性の新風を!」みたいなことを言う人は多いのであって、それはつまり「男女平等」からはかけ離れた意識があることを意味する。最近、男女比率維持のために女性枠のようなものを作る企業などの団体も見受けられるけれども、それもまた「平等」という観念からは著しく外れているのではないか。

この問題について話すとき、考えなければならないのは「男女平等とは何か」、そして「我々はどのような社会を目指すべきか」ということだ。もはや「平等」という概念が形骸化し、ただ自らの主張の盾として利用する人々も散見されるからである。
私は、「男女平等」とは性別に関わらず自らの望む道を選べることであると思う。決して男女が同じ職に就くことではない。それは個々人が希望したことの結果であるべきで、目的と取り違えてはならない。
そして私たちが目指すべき社会とは、「個人の希望を許容できる寛大な社会」ではないだろうか。つまり、制度的に大きく自由が認められており、個人が自分の望む選択をできる社会。必ずしもそれぞれの職種における男女比率が等しくないかもしれない。けれどそれでいいと思う。「平等」はそこでこそ実現する。

冒頭の彼女の主張に欠けているのは、私たちが「平成生まれの」「若い」女性であるという事実への考慮だと思う。実際、私たちの世代でまわりを見渡しても、制度的にも人々の意識的にも女性差別は見受けれられないということには私も同意する。むしろ社会は若い女性にとても優しい。
一方で、現在教授職についている人々は、寿退社を当然してきた世代の人間である。世代差というのはやはり大きい。彼らは「男女が平等ではない」社会(それは必ずしも悪しきことではなく、ただ強い男性、恭順な女性を理想とするような文化である。繰り返すが私はそれが悪いとも後進的だとも思わない。ただ「そういう文化」であっただけである。)で育ってきたのだから、彼らにとって当たり前のことは私たちにとってのそれと全く異なるのだ。(そして付け加えるなら、人間は年を取ると自分の考えを根本的に変化させることがなかなか困難になる。もちろんプライドもあるだろう。最近よく思うのだが、今回の話に限らず、上の世代の人を言い負かそうとするのはやめた方が良い。あまり良い結果を招かない。)

そろそろ私たちは男女の身体差というものを認めなければならないと思う。人権という意識が拡大し、男女平等が叫ばれ、いくら制度上男女が等しく扱われるようになっても、身体差というものは依然として存在する。社会が制度的に成熟しても、私たちは生物として進化したわけではないのだ。「とにかく扱いを完全に同じしなければならない」という意識は非合理的だ。とりわけ、やはり「出産」という存在は大きい。出産するということは近年あまりにも軽視されているように感じるし、仕事を続ける上での足枷のような扱いを受けるのはおかしいのではないかと思う。子どもが生まれなければ私たちは種として断絶してしまうということをお忘れではないだろうか。

もちろん、「産まない」という選択肢もある。それは女性個人の自由である。そして「産む」自由もある。さらに言えば結婚するしないも自由だし、パートナーが異性でも同性でも良い。
重要なことだが、これらの選択は個人の理念にのみ起因し、公共の福祉と衝突しない。そうであるのに、他人の選択に口を出すような理念のぶつけあいはあまりに非生産的ではないだろうかと、ずっと思っている。(しかし私のこの主張もそれに含まれるひとつだという矛盾に頭を悩ませながら、今日は眠ろうと思う。)