重苦しいテーマを扱っているではないのに、なんとなく薄暗いものを感じた。その原因を考えると、おそらく、アデルの表情にあったのだと思う。
『アデル、ブルーは熱い色』を観た。映像は人物の顔のアップが非常に多い。一番前の座席で観たので(有楽町最終日最終公演ということもあって、劇場は満員御礼だった)その迫力に圧倒されたほどだ。
それだけ「顔」が重視された映画でありながら、ヒロインのアデルは表情の豊かな少女ではない。いつも陰鬱そうな、気怠そうな顔をしている。笑わないのだ。友人たちと挨拶を交わす時も、その目はどこか遠い世界を覗いている。おそらく彼女が自然な笑顔を見せたのは約3時間という長い時間の中で一度だけ、アデルの家でエマと抱き合った時だけだった。アデルは愛するエマと一緒にいるときでさえ、いつも不安そうな顔をしていた。仕事の話をするエマを見るアデルの目はぼんやりとしていて、悲しみさえ帯びているように感じられる。ホームパーティーをした時も、自分には入り込めない、芸術という固い意識で結ばれた人々の中に入り込めず、エマが他人と楽しそうに話すのをもどかしそうに見つめる。ともに暮らしながら、その人生全てを芸術にかけるエマに憧憬というフィルタをかけて、抱きしめてもなお自分の手にはいらないような、そんな不安定さを感じ、見つめているように見えた。
アデルのエマへの感情は恋ではなく、あの青春時代特有の憧れだったのだろうと思う。憧れといってしまうと過度に限定的かもしれない。安定を求め、堅実に生きていこうと教師を志望するアデルの眼に、確かな未来などなにもない、けれども全身全霊を作品に傾ける青い髪の女性がどうして魅力的に映らないことがあるだろうか。
アデルはレズビアンではない。きっと彼女はバイセクシュアルですらないと思う。学校の階段でベアトリス(?)にキスされたときにアデルは自分がもしかしたら女の子が好きなのかもしれないと思ったのだろう。しかしその前提として、エマとのあの出会いがあったということを忘れてはならない。そういう時、少女は「私、エマに恋をしているんだ」と思いたいに決まっている。
私は映画にしても本にしても自分で感想を書く前にはあまり他人の批評というのを見ないようにしているが、それでも目に入ってきたのが過剰な性描写に関する記述だ。そんなわけでその点に関しては映画を観る前にかなり身構えていたのだが(あまり得意ではないのでウッとなってしまう)観た後の感想を述べれば、全く何の抵抗もなかった。とても自然だった。妙ないやらしさとか、無意味に性的な描写とか、そういうものが全くなかったと思う。いいも悪いもない、ただどこまでも自然だった。彼女たちの生活がそのまま映し出されているのだ。もし仮にあのシーンがなかったとしても別に不自然さはないと思っただろうし、あったからといって違和感を覚えない、そういう流れの美しさだった。
冗長だとは全く感じなかった。彼女たち二人の互いへの愛が描かれていると、そう思った。
私はこの映画がとても好きだった。
妙な押し付けがましさやわざとらしさがなく、繰り返すがとても自然だ。アデルもエマも特殊な人間ではない。ある意味普遍的な若い女性たちの数年間を、派手なフレームをつけることなく綺麗に切り取っている。彼女たちの問題はセクシュアルマイノリティに起因することではない。レズビアンであるというのはエマの一つの特徴に過ぎない。たいした問題ではないのだ。
何にせよレア・セドゥ扮するエマがとても魅力的だ。色素の薄い肌、雑に青く染められた髪、意味ありげに見つめる瞳。そりゃあ、自分の高校生活や将来に疑問を抱いている18歳の少女は惹かれてしまうよなあと思う。
きっと多くの人がアデルに、エマに自分の何かを重ねたことだろう。18歳からの数年間はこんなにも魅惑的で愛おしい。そして私はまだ自分がその中にいるのだということを、忘れずにいたい。