2014年5月28日水曜日

アデル、ブルーは熱い色





重苦しいテーマを扱っているではないのに、なんとなく薄暗いものを感じた。その原因を考えると、おそらく、アデルの表情にあったのだと思う。

『アデル、ブルーは熱い色』を観た。映像は人物の顔のアップが非常に多い。一番前の座席で観たので(有楽町最終日最終公演ということもあって、劇場は満員御礼だった)その迫力に圧倒されたほどだ。

それだけ「顔」が重視された映画でありながら、ヒロインのアデルは表情の豊かな少女ではない。いつも陰鬱そうな、気怠そうな顔をしている。笑わないのだ。友人たちと挨拶を交わす時も、その目はどこか遠い世界を覗いている。おそらく彼女が自然な笑顔を見せたのは約3時間という長い時間の中で一度だけ、アデルの家でエマと抱き合った時だけだった。アデルは愛するエマと一緒にいるときでさえ、いつも不安そうな顔をしていた。仕事の話をするエマを見るアデルの目はぼんやりとしていて、悲しみさえ帯びているように感じられる。ホームパーティーをした時も、自分には入り込めない、芸術という固い意識で結ばれた人々の中に入り込めず、エマが他人と楽しそうに話すのをもどかしそうに見つめる。ともに暮らしながら、その人生全てを芸術にかけるエマに憧憬というフィルタをかけて、抱きしめてもなお自分の手にはいらないような、そんな不安定さを感じ、見つめているように見えた。

アデルのエマへの感情は恋ではなく、あの青春時代特有の憧れだったのだろうと思う。憧れといってしまうと過度に限定的かもしれない。安定を求め、堅実に生きていこうと教師を志望するアデルの眼に、確かな未来などなにもない、けれども全身全霊を作品に傾ける青い髪の女性がどうして魅力的に映らないことがあるだろうか。

アデルはレズビアンではない。きっと彼女はバイセクシュアルですらないと思う。学校の階段でベアトリス(?)にキスされたときにアデルは自分がもしかしたら女の子が好きなのかもしれないと思ったのだろう。しかしその前提として、エマとのあの出会いがあったということを忘れてはならない。そういう時、少女は「私、エマに恋をしているんだ」と思いたいに決まっている。

私は映画にしても本にしても自分で感想を書く前にはあまり他人の批評というのを見ないようにしているが、それでも目に入ってきたのが過剰な性描写に関する記述だ。そんなわけでその点に関しては映画を観る前にかなり身構えていたのだが(あまり得意ではないのでウッとなってしまう)観た後の感想を述べれば、全く何の抵抗もなかった。とても自然だった。妙ないやらしさとか、無意味に性的な描写とか、そういうものが全くなかったと思う。いいも悪いもない、ただどこまでも自然だった。彼女たちの生活がそのまま映し出されているのだ。もし仮にあのシーンがなかったとしても別に不自然さはないと思っただろうし、あったからといって違和感を覚えない、そういう流れの美しさだった。
冗長だとは全く感じなかった。彼女たち二人の互いへの愛が描かれていると、そう思った。

私はこの映画がとても好きだった。
妙な押し付けがましさやわざとらしさがなく、繰り返すがとても自然だ。アデルもエマも特殊な人間ではない。ある意味普遍的な若い女性たちの数年間を、派手なフレームをつけることなく綺麗に切り取っている。彼女たちの問題はセクシュアルマイノリティに起因することではない。レズビアンであるというのはエマの一つの特徴に過ぎない。たいした問題ではないのだ。

何にせよレア・セドゥ扮するエマがとても魅力的だ。色素の薄い肌、雑に青く染められた髪、意味ありげに見つめる瞳。そりゃあ、自分の高校生活や将来に疑問を抱いている18歳の少女は惹かれてしまうよなあと思う。
きっと多くの人がアデルに、エマに自分の何かを重ねたことだろう。18歳からの数年間はこんなにも魅惑的で愛おしい。そして私はまだ自分がその中にいるのだということを、忘れずにいたい。





2014年5月21日水曜日

roses



私はバラが好きではなかった。

きっと多くの人が思い浮かべるバラは、「バラ」の香りというより「バラの香り」という香りをまとった存在なのではないかと思う。私にとってのバラもそういうもので、何せ好きな花は紫陽花やかすみ草なので、バラのあの香りの驕った感じが苦手だった。あまりに華美で、高飛車な花だと思っていた。


イスパハンという洋菓子をご存知だろうか。ピンク色のマカロンに、ライチの果肉とバラのクリーム、フランボワーズを挟み、バラの花びらをあしらったもので、ピエールエルメのスペシャリテだ。今年のバレンタインに、ラデュレがハート形のアントルメを作ったのも記憶に新しい。

これを初めて食べたのは高校生の時で、母と行った銀座三越のラデュレのティールームだった。
華やかなケーキだな、と思った。エディブルフラワーが今ほど流行っていなかったし、大きなバラの花びらを載せたマカロンは新鮮に感じた。私がその日このケーキを選んだのはフランボワーズとライチに惹かれたからで、なんだってわざわざバラの香りなんてつけるんだろうと思っていた。
しかしまあお察しの通り、このケーキは本当に美味しかった。今では好きな洋菓子を尋ねられたら必ずイスパハンと答えるほど、私はこのケーキが好きになった。

そして私はその時バラを好きになった。
生花の香りをかぐのではなく、口にするという行為は、それを体全体で受け入れるような、そんな意味を持たせたように思う。
そうなると不思議と花それ自体も愛らしく感じられるもので、高飛車だと感じていたあの美しい花は高貴で上品だと思うようになった。ちなみにバラの花言葉は「愛」や「気まぐれな美しさ」だそうな。色によってまた様々だけれど。

私はガーデニングには詳しくないが、バラは最も栽培が難しく最も奥深い花のひとつだと思っている。多くの人たちが夢中になるのもよく分かる。
間もなくバラの季節だ。今年はどこかの庭園へ、時間を作って行きたいと思う。


2014年5月13日火曜日

azaleas



全ての攻撃は自衛なのではないかと最近思う。
きっと皆、自分に足りないものを得ようとして他人を傷付け、満たされない思いを衝突させて悲嘆に暮れているのだ。人間も、彼らが構成する社会も。

少し前に、ある人がこんなことを言っていた。
「愛することを社会が個人に強制するのはおかしい。」

その人は、このような問題は個々人の自由裁量に任されるべきだという。
私はこう思う。愛は人間を抑制する最も強い力だと。愛されていない、或いは愛されているということを自覚しない人間は社会に、他人に切り掛かる。剣を抜いたままこちらを見つめる。そして社会は、自らを守り調和を保つためその大きな権威に依存する、それが愛だ。
社会という大きな存在が個人に何かを強要することはある意味とても暴力的で恐ろしいことのようにも思える。しかしそれも自らを守るための必死の抵抗だと思うと、なんだかとても愛おしいものに思える。

私は常に満たされていたい。
人を助けられる余裕を、自分のために使ってもあり余る力を、持ち続けていたい。人間が人に与えられるのは、ただその器から溢れ出た愛だけなのだと感じる日々だ。