カズオイシグロ作、小野寺健訳の『遠い山なみの光』を読みました。
原文の『A Pale View of Hills』が出版されたのが1982年、そしてこの日本語訳は84年に『女たちの遠い夏』という邦題で筑摩書房から刊行されました。(その後92年に邦題が『遠い山なみの光』に変更。)
故郷の長崎を去りイギリスで暮らす悦子の回想として語られる、戦後間もない長崎での生活は幻想的なベールに包まれています。
イシグロは五歳のときにイギリスへ移住し、日本での記憶はほとんどないといいますからこれは彼が考える「日本人らしい感性」なのでしょうが、それはあまりに現代の我々のものとかけ離れていて、不思議な違和感を覚えながら読むこととなりました。
例えば、佐知子という女性ですが、彼女はちょっと「おかしい」人に見えるのです。あてにならない、何度も裏切られた男性に自分と幼い娘の未来を託したり、友人の悦子に当然の如くお金の無心をしたり(受け取ってその場で確認もせずお礼も言わず、自分のもののように鞄にしまう)、悦子に頼んで紹介してもらったうどん屋での仕事を本来自分がするべきでない卑しい仕事のように蔑んだり、娘が大切にしていた猫をその子の目の前で川につけて溺死させたり。何かがずれている人のように思えます。しかし作中での周りの人間の彼女への態度を見てみると、決してそういう風には思われていないようなのです。
悦子は比較的、私たちがイメージするあの時代の日本女性像そのものなので、この二人の女性の関係性がとても不思議に思えます。
しかし二人の女性はとても仲が良いように思えて、実は全く会話を成立させていません。互いの話を聞いていないのです。
双方とも相手に自分の主張をぶつけるのみで、悦子は現在の自分の肯定を、佐知子はアメリカへ行くことを選んだ未来への希望を語るという違いこそあれ、不安定な時代での自分の正しさを信じたいのだというなんだか悲しい意志が感じられます。
そしてこの本全体にかかっている不思議な霧のようなベールの理由に気付くのです。
登場する人間たちは全員が互いにこのような関係性の中にいる。
佐知子の娘である万里子、悦子の夫や義父、そして娘たち。彼らは誰も相手の話を聞いていないのです。言葉に応えてはいるのだけど、会話が行なわれているように見えるのだけど、結局彼らは最後まで、自分の信じていたものしか信じないのです。あの不思議さの理由は「日本人らしさ」という特徴の問題ではなく、きっと世界中に普遍的に存在するものだったのです。誰しもが傷つき、どうにかして立ち上がろうと必死だった激動の時代の、緩やかな抵抗を描いたのではないでしょうか。
この本の、特に会話の部分を読みながら、私は仏劇作家ジョルジュ・ポムラの『赤ずきんちゃん Le Petit Chaperon rouge』を思い出さずにはいられませんでした。例えば、以下は少女赤ずきんが祖母の家を訪れ、祖母の振りをするオオカミと会話する場面です。
しばらくして少女は(家の)中に入った。オオカミはおばあさんのベッドでシーツの下に隠れていた。
「あなたに言いたかったんだけど、おばあちゃんの家もあんまりいい匂いしないわよ。少し閉め切っていたような匂いがするわ。空気が澄んでいる時はもう少し頻繁にドアを開けた方がいいんじゃないの。外の方が本当に空気がいいわよ」
「本当ね、でもこっちへおいで。早く私にキスして欲しいんだよ。二人だけで落ち着いていられるんだから」
「まず私のフランを置きに行くわ。おばあちゃんのために作ったフランなのよ、お母さんがそうしろって言ったから」
「あらそうなの」
「じゃあまあ、それでもそこの腰掛けに座るわ」
「あなたのおばあちゃんに近づきたくないかのようね」
「そんなことないわ、ここまで来るために外を歩きすぎた足のせいで、少し休んでいるだけよ」
「ベッドの上の私のそばに座った方がもっと足を休められるはずよ」
「おばあちゃんのためにこのフランを作るように私に頼んだのはお母さんなの。フランの一部分でもいいから食べてくれて、おいしいと思ってくれるといいんだけど。お母さんは私が一人でフランを作れるとは思っていなかったの。彼女は私が本当に小さいと思っていて、結局人生において責任を負うことができるとは思っていないんだと思うわ。お母さんたちっていうのはいつだってこんなじゃない?まったく疲れちゃうわ」
「(待ちきれず)もっと私の近くにおいで」
「(ますます怖がって)私のお母さんと私はすごく気が合うんだけど、時々彼女を堪え難くなるの。私のことを子どもだと思っているんだもの」
原文はフランス語なので上記は稚拙ながら私の訳です。
何しろ万里子がこの少女に思えて仕方なかったのです、奔放なキャラクターがとても似ていて。
この場面では、空腹に耐えきれず早く赤ずきんを食べてしまいたいオオカミと、祖母の異変をなんとなく感じたであろう赤ずきんの会話にならない会話が描かれているのですが、赤ずきんは逃げるでもなくなんだか不思議な話のそらし方をして、最終的にはオオカミのそばへ自ら行ってしまうのです。
相手の話を耳に入れないことで行なう抵抗、主張、そういった類いのものを、私たちは幾度も目にしてきたはずです。共通していえることは、それらはいつも苦しんでいる人間が発する哀しい信号だということです。
邦題の『遠い山なみの光』はこの本の表紙に記されるべき名前としてふさわしいものだったと確信しています。
戦後の長崎で淡い光を求める人々と娘を失ってイギリスで暮らす悦子の、懸命な姿が丁寧に描き出された、美しい本でした。
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