カズオイシグロの『わたしたちが孤児だったころ』を読んだ。
読了後しばらく言葉を失い、冷めてしまった紅茶を前に必死で何か自分を救ってくれるものを探した。
イシグロが描いたのはある一人の少年が大人になるまさにその瞬間だったのではないかと思う。
ハドソンの探偵業は、幼少の頃アキラとしていたごっこ遊びと結局のところ変わらなかったのだ。仮に彼がその職業で収入を得、人々から羨望の眼差しを集め、英国社交界の中心に立つことになったとしても。
憧れは、時に相手を理想化してしまう。自らの中で形作られたヒーローに、希望や期待や「自分には為し得ないこと」を押し付けて、その偶像を心の拠り所にしてしまう。それが幻想だとどこかで気付いてはいても、それは靄のようにつかみ所のないものできちんと見つめることはできない。もしかしたら、自ら向き合うことから逃げているのかもしれない。
描かれているのはこの靄そのものだ。憧れていたクン警部、思い出の中のアキラ、そしてハドソンの両親。初めからなにか変だと分かっているのだ。一人の警部の力で中国中の平和が実現されるはずがない。仮に両親が誘拐され、クン警部の語る家に連行されたとしても、十年も同じ場所にいるわけなどない。中国人に取り囲まれていた日本兵がアキラである証拠などなにもない。分かっている。分かっているのだけれど、ハドソンは必死になってその靄の中を駆け抜けるしかなかったのだ。
そして少年が大人になるというのは、こうして作られたヒーローを失う時なのかもしれないと思う。或いは、自分がヒーローを失ったことを認める時というべきかもしれない。
ずっと何かおかしいと分かっていたのだから、事実を知らされたときにハドソンが受けるのは衝撃ではない。悲しみ、怒り、幼かった自分の無力さへの遣る瀬なさだ。
我々読者は、探偵というあまり馴染みのない職業の不思議さや、ハドソンが「明らかに目を向けないようにしている」、おそらくそこに存在するであろう事実になんとなく気付いているにもか関わらず、彼に同調する他ないのだ。頭を殴られるような衝撃を与えるのではなく、じわりじわりと我々の心に広がってく失望、それはまるでクロマトグラフィーを経たかのように分離してしっかりと跡を残す。
イシグロの綴る言葉は、一言一句として無駄なものがない。美しく、繊細で、哀しく、愛おしい一人の人生が、この中に流れている。