久しぶりに、映画を観てこんなにも涙を流した。
『愛、アムール(原題:AMOUR)』は、まさにその名の通り愛の具現化であり、使い古された言葉を使えば究極の愛そのものであった。
ミヒャエル・ハネケは、決して避けることのできない人間の老いと死、そして気高い尊厳を強く美しく描き出した。
「今夜の君は、きれいだったよ」
夫は妻に、いつものように語りかけた。
夫ジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティ二ャン)と妻アンヌ(エマニュエル・リヴァ)。パリ都心部の風格あるアパルトマンに暮らす彼らは、ともに音楽家の老夫妻。その日、ふたりはアンヌの愛弟子のピアニスト、アレクサンドル(アレクサンドル・タロー)の演奏会へ赴き、満ちたりた一夜を過ごしたのだった。
翌日、いつものように朝食を摂っている最中、アンヌに小さな異変が起こる。突然、人形のように動きを止めた彼女の症状は、病による発作であることが判明。手術を受けるも失敗に終わり、アンヌの体は不自由に。医者嫌いの彼女が発した「二度と病院に戻さないで」との切なる願いを聞き入れ、車椅子生活となった妻と、夫は自宅でともに暮らすことを決意する。
当初、時間は穏やかに過ぎていった。誇りを失わず、これまで通りの暮らし方を毅然と貫くアンヌ。それを支えるジョルジュ。離れて暮らす一人娘のエヴァ(イザベル・ユペール)も、階下に住む管理人夫妻も、そんな彼らの在り方を尊重し、敬意をもって見守る。
思い通りにならない体に苦悩し、ときに「もう終わりにしたい」と漏らすアンヌ。励ますジョルジュ。ある日、夫にアルバムを持ってこさせたアンヌは、過ぎた日々を愛おしむようにページをめくり、一葉一葉の写真に見入る。
当初、時間は穏やかに過ぎていった。誇りを失わず、これまで通りの暮らし方を毅然と貫くアンヌ。それを支えるジョルジュ。離れて暮らす一人娘のエヴァ(イザベル・ユペール)も、階下に住む管理人夫妻も、そんな彼らの在り方を尊重し、敬意をもって見守る。
思い通りにならない体に苦悩し、ときに「もう終わりにしたい」と漏らすアンヌ。励ますジョルジュ。ある日、夫にアルバムを持ってこさせたアンヌは、過ぎた日々を愛おしむようにページをめくり、一葉一葉の写真に見入る。
アンヌの病状は確実に悪化し、心身は徐々に常の状態から遠ざかっていった。母の変化に動揺を深めるエヴァ。それでも、ジョルジュは献身的に世話を続けた。しかし、看護師に加えて雇ったヘルパーに心ない仕打ちを受けたふたりは、次第に家族からも世の中からも孤立していく。
ついにふたりきりになったジョルジュとアンヌ。終末の翳りが忍び寄る部屋で、夫はうつろな意識の妻に向かって、懐かしい日々の思い出を語り出す――。
ついにふたりきりになったジョルジュとアンヌ。終末の翳りが忍び寄る部屋で、夫はうつろな意識の妻に向かって、懐かしい日々の思い出を語り出す――。
愛とは何か?正しさとは何なのか?私たちに残される問いは簡単なものではない。
ジョルジュは正しかったのだろう。正しかった。アンヌもそれを望んでいた。なのにその正しさはこんなにも痛ましく、私たちに衝撃的な悲しみを与えるのだ。
この映画で描かれたのは夫婦愛というより、ジョルジュの、アンヌへの愛だ。ともすれば、思うように体を動かせず、家政婦に望まない扱いを受けることになる情けなさ、遣る瀬なさ、羞恥によって自尊心を傷付けられ、そして絶望と自らの死への望みを抱くアンヌに生を強いること、それこそが愛なのだろうか。それとも、やがてジョルジュが下す決定こそが愛だというのだろうか。
「愛とは何か?」
愛と恋の違いだとか、そんな語義的な話をしようというのではない。相手を思い、慈しみ、大切にする心は、結果としてどのような行動を人間に起こさせるのか。
ジョルジュの行動はエゴイズムに因ったと言われても否定はできないだろう。ジョルジュにとって妻を愛するということが結論を出す唯一の理由であって、しかしそれは一般化された愛ではないからだ。
この映画に「介護」という言葉はなんとも似つかわしくないと思うが、特にこの介護という領域において、自己を犠牲にした愛はやがて人間を破壊するのだと思う。受ける者も確かに人間だが、行なう者もまた人間でしかないのだ。それは身体的にも精神的にもいえることで、老いたジョルジュがアンヌの世話をすること、そしてそれがアンヌに望まれていないために感謝を得られないどころか悪態をつかれること、やがて愛する妻が認知においても安定を失うこと…それは単に「妻を愛していたから」出来たことだったと、私はいってもいいのだろうか。
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