『チェチェンへ アレクサンドラの旅』を観た。アレクサンドル・ソクーロフ監督の、チェチェン紛争を扱った映画だ。
ちなみに原題は<<александра>>なのだが、このアレクサンドラというのはとてもありがちなロシア人女性の名前で、画像検索をしてもほとんど映画関係の画像が出てこず(アレクサンドルという男性名があり、ご存知の通りこれは帝国時代の皇帝の名前でもあるのでそちらばかり出てくる)、ロシアではあまりそういう意味での広報力みたいなものは考えないのかなあなんて思った。
さて、偉大なオペラ歌手ガリーナ・ヴィシネフスカヤ演じる主人公アレクサンドラは、将校を務める孫のデニスに会いにチェチェンのロシア軍駐屯地を訪れる。驚くのはこの映画が実際に紛争地帯の最前線で撮影されていること、そして出演するほとんどのロシア人兵士(おそらくチェチェン人もだろう)が現地の本物の兵士だということだ。映画の撮影隊が訪れたことによる兵士たちのぎこちなさが、駐屯地を闊歩する80過ぎのおばあちゃんへのリアクションとして上手く生きているような気がする。
どうしたって変なのだ。遠くで爆発音が響き、戦車が大きな音を立てて出撃していくすぐ横をおぼつかない足取りのおばあちゃんがガラガラと大きな荷物を引いて歩いているなんて。目的が目的なら、きっと同じ舞台でコメディにだって出来ただろう。
デニスと別れる前の最後の日、アレクサンドラは孫を質問攻めにする。ガールフレンドはいないの?結婚をするつもりはないの?どうして?おばあちゃんが素敵なお嫁さんを見つけてきてあげるからね。
デニスはその質問の理由を知っていた。「おばあちゃんは俺たち兵士にもっと贅沢な生活をしていて欲しかったんだろう。今日このまま死ぬかもしれないっていうのに、これが最期の服になるかもしれないのに、こんな汗や泥に汚れた軍服を着ているのが悲しいんだろう。」
デニスは戦火という確実な死の近くを歩いている。そしてアレクサンドラにもまた老いという死が近づいているのだ。孫を心配するかのように現れた老婆は、夫の死後孤独への不安に襲われ続けていたのだった。「独りでいるのが嫌なの」と彼女はデニスに寄り添った。
逃れられない「死」の恐怖が、若い男と老婆の会話によって繊細に描かれている。
この映画のもう一つの大きなテーマはチェチェンでの紛争と抑圧だ。
アレクサンドラがバザールで友人になったチェチェン人、マリカは語る。
「ロシア人の兵士を見るとみんな幼いのよね。少年みたい。男の匂いがするけど子どもみたい。スラヴ人は全く違う人種ね」
「男は敵同士になるかもしれないけれど、私たちは最初から姉妹よ」
実際、マリカはロシア人であるアレクサンドラを家へ招き、心から歓迎する。彼女が友人を招く家の周辺がロシア兵によって破壊されているというのは何と苦しいことなのだろう。マリカはどうやらロシア文学の教授を務めていたらしく、とてもロシア語が上手い。そしてアレクサンドラを美しいロシア語でもてなす。しかしそれはマリカの言葉によれば彼女たちが女だからであって、チェチェン人のロシア人への友好的な態度を表しているわけではない。マリカにアレクサンドラを駐屯地まで送るよう支持された若者は、道中アレクサンドラに懇願する。
「お願いだ、僕を解放してくれ。もう限界だ」
アレクサンドラはロシア人だ。
若者がいったいどのような経験をしたのかは描かれないが、おそらく大切な何かをロシア人に破壊されたということは想像に難くない。
若者はアレクサンドラを殴り殺してしまうことだって出来ただろう。しかし彼は耐えた。必死な顔で自分を解放してくれと切願する彼をアレクサンドラは諭す。「青いわね、耐えないといけないのよ」
一体彼はどんな心境でこの言葉を聞いたのだろう?彼は結局、アレクサンドラを無事にロシア兵駐屯地まで送り届け、感謝を述べられることもないまま帰路につくのだった。
この映画が反戦的な姿勢をとっていることは疑う余地もないが、これは「静かな」平和への祈りなのだ。人が泣き叫び殴られ血を流すようなことはしない。怒りも悲しみも、信じられないほど静かで、そしてそのせいで一層私たちに強く訴えかけている。
0 件のコメント:
コメントを投稿