2013年12月4日水曜日

ロバート・A・ハインライン『夏への扉』



ロバート・A・ハインライン著、小尾芙佐訳『夏への扉』を読みました。
とてもテンポが良く、爽やかで気持ちの良い小説でした。純粋に技術を信じ、人間が自らの手で切り開いていく未来は必ず明るいのだという、突き抜けた自信が感じられました。

メインストーリーとはあまり関わりませんが、主人公のダニエルが婚約者に裏切られたときの記述がとても印象的です。
「膝から力が抜け、絨毯の上にくずおれるとき、ぼくはあることを感じていたのを覚えている。ベルがぼくにこんなことをしたという衝撃だ。この期におよんでも、ぼくはまだ彼女を信じていたのである。」
彼はここに至るまでに愛していたベルから既に酷い仕打ちを受けているのですが、それでもなお彼は彼女を心の奥底で信じていたのです。あまりのショックに事実を受け入れられず、彼女が自分を裏切るわけがないと強く願っていたのかもしれません。彼女を信じていたということは、言い換えれば裏切られた事実を信じていなかったということで、人は常になにか自分の求めるものを信じようという気持ちが働くのかもしれないと思いました。

訳者の小尾芙佐さんはダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』を訳した方で、SFを柔らかな日本語に訳すのに長けているように思います。彼女は普段からとてもたくさんの人たちをしっかりと見ているのだと感じます。『夏への扉』では特に台詞の訳が素晴らしく、性別や年齢、職業だけでなく、原文に明記されていないであろう人物の細やかな性格までも映し出すような魅力的なものでした。

ところで、私は翻訳された小説の感想を書こうとすると、いつも一つの大きな壁にぶつかってしまいます。
つまり、「私が読んだ文章は著者によるものなのか、訳者によるものなのか」という問題です。小説に限らず、文章において大切なのは内容(特に小説についていえばストーリー)だけでなく、どのような言葉を使ったかということ、またなぜその言葉を選んだのかが感じられることだと思うのです。
語のリズム感や音、言語間で異なるニュアンスを訳出することは実際のところ不可能でしょう。その言葉の背後にある莫大な歴史と文化を理解せずして外国語を完全に理解することなどできないからです。
それゆえ私はいつも、どちらかといえば訳者の存在に焦点を当てた感想を書いています。(私が読んだのは『夏への扉』であって『The Door into Summer』ではないのだという意識が強いのです。)しかしそれはその本の感想とは言いがたく、ある意味では翻訳というものを否定する、訳者に対して失礼な態度かもしれないと最近思うようになりました。もっと素直な気持ちで本に向かいたいものです。

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