2013年12月28日土曜日

Marie Laurencin



先日、箱根のポーラ美術館を訪れたとき、展覧会「ルノワール礼賛」でマリー・ローランサンという画家の絵を見た。展示されていたのは1926年の『風景のなかの二人の女』などで、明度の低い背景の中に真っ白な、本当にほとんど真っ白な肌をした、艶やかな曲線美を得た女性が描かれていた。女性たちはどこか物憂げで、しかし自信に満ちた不敵な笑みを口元に讃えていた。彼女たちは私の心を捕えて離さなかった。ルノワールと並んでも尚。

私はもっとローランサンの作品を見たいと思った。しかし彼女についての情報は人生それ自体についての記述が多く、少なくとも日本語、英語、フランス語では現行の作品集が見つけられなかった。
どうやら、かつて長野県は茅野市に世界で唯一のマリー・ローランサン美術館が存在し、そして2011年に閉館してしまったということが分かった。その際、美術館の所蔵作品集も廃版になってしまったようだ。とても悲しかった。あと二年早く彼女の作品に出会っていれば……

そんな話をしていたら、母が私に言った。
「たぶん、おじいちゃんの家に展覧会の出展作品集があると思う。おばあちゃんはマリー・ローランサンが大好きだったから、私を連れて展覧会へ行ったよ。」

展覧会!そんなにポピュラーな画家だったのか。どうしてこんなに情報が少なく、作品集も販売されていないのだろう、と不思議に思った。そして何より、私はしっかりと祖母や母の血を受け継いでいるのだと思うととても嬉しく、気分が高揚した。
さらになんと、驚いたことに、その作品集は母の実家どころか私の部屋の本棚に眠っていた!以前母の実家の本棚を掃除したときに、いわさきちひろや他の展示会の便覧(エル・グレコやボナール、ダヴィンチの最後の晩餐展など。母は本当に良い時代に青春を過ごしたと思う。)と一緒に持ってきて仕舞い込んだらしい。

それによると、1979年の秋に、日本橋の高島屋で「ばら色の夢─永遠の乙女たち マリー・ローランサン展」という展覧会が開かれた。作品集はそのときのカタログだ。外務省、文化庁、フランス大使館の後援を受け、東京の他にも福岡、名古屋、仙台、京都で開催されたようだ。主催者の読売新聞と、当時の駐日フランス大使ルイ・ドージュによる挨拶を一部抜粋して紹介したい。


 フォーヴやキュビズムなど激動の近代絵画の流れの中で、妖精的な雰囲気と、この世の優雅さ、魅惑を表現し尽くしたマリー・ローランサンは、今世紀が生んだ最もすぐれた女流画家といえましょう。
 その個性的な画風、即ち、灰色とバラ色を基調とする中間色の体系、柔らかな曲線で構成された人体。永遠に夢み続ける詩情の世界などは、近代感覚のひとつの典型の創造といえましょう。
 美術史上、女性の芸術家は極めて稀れでありながら、今世紀のはじめにはヴァラドン、セラフィーヌ、ローランサンの傑出した女性三人が誕生、三人三様の異なる画境を切りひらきましたが、共通する現象は、あくまでも直感的な才能であり、とりわけローランサンは、すべての詩人に愛され、画家と詩人をつなぐ貴重な役割りを果たしました。
 そして様式やイズムを超えた自由な芸術家として20世紀美術に独特の位置を占めているといっても過言ではないでしょう。
(読売新聞社の挨拶より)

 マリー・ローランサンの作品には何ともいえない古めかしさがただよい、それが独特な魅力となっています。彼女が好んで描く人物は、鳥の羽根、花、リボンなどの世界をいかにもお上品に動き回っています。
 ですが、こうした華奢なイメージは忘れて、特徴的な様式化による顔やからだのデッサンの確かさを賞で、デリケートな色合いと控えめな調子のハーモニーを私たちのなかでふるわせ、どうやら生きるのに疲れたらしい人物たちのエレガントな侘しさにひたるべきでしょう。
 社交界の芸術、軽い美術……確かに。ですが、薄絹のベールを透かしてこそ、それらのものが私たちの目からへだたるのももっともだということがよく分るのではないでしょうか。
(駐日フランス大使 ルイ・ドージュによるメッセージ。ちなみに最後の段落の原文は、Art mondain, art léger, certes, mais la transparence des voiles ne permet-elle pas de mieux comprendre ce qu'ils sont sensés dérober à notre vue ? である。)

マリー・ローランサンの描く乙女たちは、確かに永遠の夢であった。そしてそれは、確実にマリー自身の人生を映し出す自画像でもあったのだろう。メランコリックと花やぎ、そして全てを見透かしたような、あまりにも平静すぎるほどの落ち着き…それらは全て、彼女の女性としての変遷そのものだったのだ。

私は芸術について言語を用いてあれこれ語り、それがその価値自体であるかのように言うのはあまり好きではない。「何が素晴らしいか」を語ることはできるが、それはあくまで後付けの理由であり、対象と出会ったときに感じる感情そのものではあり得ないからだ。そして、本来言語の介入を望まないものを言語化する行為はとても暴力的であると思う。対象に触れたときの惹き付けられる気持ち、胸の高鳴り、衝動、興奮、それだけでは不十分だろうか?

そう、マリー・ローランサンの作品はとても"魅力的"なのである。

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