2014年11月3日月曜日

美女と野獣



ガンズ監督の『美女と野獣』を観た。

『アデル、ブルーは熱い色』で一躍有名となったレア・セドゥがベルを演じる、あまりにも有名なおとぎ話『美女と野獣』。それだけでも期待は高まるのだけど、ビジュアルの美しさやレアのドレスへのこだわりなどは日本で公開される前から評判で、私は今日をとても楽しみにしていた。

全体的な感想としては、ストーリーは誰もが知るところなので意外性などはないけれどその分安心して観ることができ、レアとバラの美しさに息を飲む映画だと思う。ハッピーエンドだと分かっているのはやはり良い(いずれここに書くつもりだが、私が一番最近観た映画が園子温監督の『ヒミズ』だったので、より一層強く感じた)。ストレートに、私利私欲に塗れることの醜さと愛することの素晴らしさとを伝えている。


(これより先は本編のネタバレを含みますので、これからご覧になる方はご注意)


まず、ベルの父親がひと気のない野獣の城で勝手に食事を貪るシーン、『千と千尋』を想起する人は多いのではないかと思う。息子が勝手に作った借金取りに追われて吹雪の山中を必死で逃げたのだから、温かい食事くらい与えられても良いと思うのだが、あまりにもその食べ方の汚さが強調されていた。大人しく座って目の前の皿に盛られているものを食べれば良いものを、骨付きチキンを雑に貪り、次々に別の皿に手を伸ばしては食事を床に落とし、ワインをグラスに綺麗に注ぐこともできずにこぼす、これまでの彼への同情をまるで吹き飛ばしてしまうような罪の作り方だ。

それから、城を守っている石の巨人たちを見ると『ラピュタ』の巨神兵を思い出さずにはいられなかった。草木と一体化して眠っているところやその目覚め方、主人を失って崩れていく様子など、巨神兵のそれのようだった。(まあ、この時代に○○が△△のようだったと言うこと自体がナンセンスかもしれない。)




『美女と野獣』を題材にする以上、ストーリーにはあまりコメントしないけれど、レアを起用した上でこの青の使い方はずるいのではないかと思ってしまう。いや、むしろファンサービスというべきか。
映画の中でベルはオフホワイト、深い緑、ターコイズブルー、そして鮮やかな赤という四着のドレスを着替える。その中でやはり目立つのは、ダンスをした野獣がベルに心を寄せ、ベルが氷の上をドレスで駆ける時に着ているブルーのドレスと、最後に袖を通すことになる赤いドレスだ。彼女を一躍有名にしたのは言うまでもなく『アデル、ブルーは熱い色』なのだから、少なくとも今の時点でレアと青は切っても切れない関係にあるだろう。あの作品の中で髪を青く染めていたレアは本当にこの色がよく似合うし、青はレアの不思議な魅力を最もよく引き出す色だと思う。

もったいないと思ったのは、赤いバラを上手く使い切れていなかったところだ。ベルの父親が愛する娘のために「命の代償」として持ち帰った印象的なバラはそれっきり出てこない。野獣が湖で溺れたベルをベッドに寝かせ、その手に同じ品種のバラを持たせるも、バラは特に大きな役割を果たすわけでもなく、ベルが起き上がってからどうなったのかもよく分からない。せっかく出すのだからなにか深い意味があったり、本編を通じて存在し続けても良いと思ったのだけど。ラストに登場する子どもに恵まれた二人の家に、同じバラがまだ咲き続けているとかなら、ロマンチックだしストーリーとしても良いのではないかな。

余談だが、レアは(おそらく役作り云々ではなく)片方の口角を上げにやっとした目でいたずらっぽく笑うときがあって、私はそれがとても好きだ。『美女と野獣』では7時の夕食の時に、野獣を煽るベルがその顔をしていた。吸い込まれてしまいそうな瞳に、いつまでも子どものようなあどけなさが残るレアの魅力が端的に分かる微笑みなのではないかと思う。



2014年9月28日日曜日


箱根の、川沿いにある旅館に宿泊した。

夕食を終え、私は大浴場で髪とからだを洗い、ひとりで露天風呂へ向かった。
私以外には誰もおらず、とても開放的で薄暗くライトアップされた浴室からは、木々のざわめきと風の音、そして川のせせらぎが聞こえるばかりだった。
私はこの歳になっても暗いところが苦手で、ともすればそのまま飲み込まれてしまいそうな暗闇にひとりで足を踏み入れることができなかった。困ったなあ、他に誰か来ないだろうかと思って浴衣に手をかけたままぼんやりと立っていた。

しばらくすると、髪を短く切った、私より二つか三つ年上に見える女性が入ってきた。
彼女は私と同じ柄の浴衣、それから黒いレースのランジェリーをばさばさと脱ぎ捨てて、足早に露天風呂へと向かっていった。私も、今来たばかりのような顔をして彼女の後を追った。

冷たい風に吹かれながら浸かる熱いお湯はとても気持ちがよく、水の反射と月明かりに照らされた自分の脚はいつもより美しく見えた。
彼女は私の前方に座り、お風呂の縁に置いた手に頭をのせて月を見上げていた。私は彼女の真っ白な背中を見つめながら、私ももっと端へ行って月を見たいような、けれど横に並んでしまったら変なやつだと思われてしまうだろうかなどと思案していた。

森からやってきた風が私の頬を冷やした。

彼女は立ち上がり、こちらを振り向いた。そして彼女の口から流れ出たのは想像していたよりも落ち着いた声だった。
「綺麗ですね」
突然のことに私は驚き、「ええ」と答えるので精一杯だった。

彼女はにこりと微笑むと、来た時と同じように勢いよく服を身に着け、ひらりと消えてしまった。

私は彼女のいた場所まで進んで、ぼんやりと輝く上弦の月を見上げた。

女性の美しさの意味を、理解したような気がした。


2014年7月24日木曜日

Reminiscences




私は今までにもらった手紙を全て保存している。

誕生日のお祝い、旅行先から送ってもらったハガキ、励ましやお礼、気遣い、小学生の頃授業中にこっそり交換した他愛ないメモ、先生からの期待。
まとめてしまってあるので普段目にすることはないが、先日大掃除をした際にふと思い出し久しぶりに紐をほどいた。

変化する私のあだ名、キャラクター柄のメモ紙は年を重ねるにつれてレターセットとなり便箋となり、付き合いの長い友人の字が徐々に大人びていく。思い出を語りあう手紙がそれ自体思い出になっていくのを眺めながら、私が生きてきた過去・記憶のひとつひとつが鮮明に象られていく。
現在の自分は過去の積み重ね、とはいえ、時を経るうちに記憶は曖昧になりそれぞれの過去は淡く色を弱める。読み返す手紙は、色あせた絵にもう一度絵の具を重ねた。

大丈夫、私はしっかりと生きてきたじゃないか。
彼らに支えられている限り、今日も胸を張って歩いていこう、と思う。


2014年7月16日水曜日

チェチェンへ アレクサンドラの旅




『チェチェンへ アレクサンドラの旅』を観た。アレクサンドル・ソクーロフ監督の、チェチェン紛争を扱った映画だ。
ちなみに原題は<<александра>>なのだが、このアレクサンドラというのはとてもありがちなロシア人女性の名前で、画像検索をしてもほとんど映画関係の画像が出てこず(アレクサンドルという男性名があり、ご存知の通りこれは帝国時代の皇帝の名前でもあるのでそちらばかり出てくる)、ロシアではあまりそういう意味での広報力みたいなものは考えないのかなあなんて思った。

さて、偉大なオペラ歌手ガリーナ・ヴィシネフスカヤ演じる主人公アレクサンドラは、将校を務める孫のデニスに会いにチェチェンのロシア軍駐屯地を訪れる。驚くのはこの映画が実際に紛争地帯の最前線で撮影されていること、そして出演するほとんどのロシア人兵士(おそらくチェチェン人もだろう)が現地の本物の兵士だということだ。映画の撮影隊が訪れたことによる兵士たちのぎこちなさが、駐屯地を闊歩する80過ぎのおばあちゃんへのリアクションとして上手く生きているような気がする。
どうしたって変なのだ。遠くで爆発音が響き、戦車が大きな音を立てて出撃していくすぐ横をおぼつかない足取りのおばあちゃんがガラガラと大きな荷物を引いて歩いているなんて。目的が目的なら、きっと同じ舞台でコメディにだって出来ただろう。

デニスと別れる前の最後の日、アレクサンドラは孫を質問攻めにする。ガールフレンドはいないの?結婚をするつもりはないの?どうして?おばあちゃんが素敵なお嫁さんを見つけてきてあげるからね。
デニスはその質問の理由を知っていた。「おばあちゃんは俺たち兵士にもっと贅沢な生活をしていて欲しかったんだろう。今日このまま死ぬかもしれないっていうのに、これが最期の服になるかもしれないのに、こんな汗や泥に汚れた軍服を着ているのが悲しいんだろう。」

デニスは戦火という確実な死の近くを歩いている。そしてアレクサンドラにもまた老いという死が近づいているのだ。孫を心配するかのように現れた老婆は、夫の死後孤独への不安に襲われ続けていたのだった。「独りでいるのが嫌なの」と彼女はデニスに寄り添った。
逃れられない「死」の恐怖が、若い男と老婆の会話によって繊細に描かれている。


この映画のもう一つの大きなテーマはチェチェンでの紛争と抑圧だ。

アレクサンドラがバザールで友人になったチェチェン人、マリカは語る。
「ロシア人の兵士を見るとみんな幼いのよね。少年みたい。男の匂いがするけど子どもみたい。スラヴ人は全く違う人種ね」
「男は敵同士になるかもしれないけれど、私たちは最初から姉妹よ」

実際、マリカはロシア人であるアレクサンドラを家へ招き、心から歓迎する。彼女が友人を招く家の周辺がロシア兵によって破壊されているというのは何と苦しいことなのだろう。マリカはどうやらロシア文学の教授を務めていたらしく、とてもロシア語が上手い。そしてアレクサンドラを美しいロシア語でもてなす。しかしそれはマリカの言葉によれば彼女たちが女だからであって、チェチェン人のロシア人への友好的な態度を表しているわけではない。マリカにアレクサンドラを駐屯地まで送るよう支持された若者は、道中アレクサンドラに懇願する。

「お願いだ、僕を解放してくれ。もう限界だ」

アレクサンドラはロシア人だ。
若者がいったいどのような経験をしたのかは描かれないが、おそらく大切な何かをロシア人に破壊されたということは想像に難くない。
若者はアレクサンドラを殴り殺してしまうことだって出来ただろう。しかし彼は耐えた。必死な顔で自分を解放してくれと切願する彼をアレクサンドラは諭す。「青いわね、耐えないといけないのよ」
一体彼はどんな心境でこの言葉を聞いたのだろう?彼は結局、アレクサンドラを無事にロシア兵駐屯地まで送り届け、感謝を述べられることもないまま帰路につくのだった。

この映画が反戦的な姿勢をとっていることは疑う余地もないが、これは「静かな」平和への祈りなのだ。人が泣き叫び殴られ血を流すようなことはしない。怒りも悲しみも、信じられないほど静かで、そしてそのせいで一層私たちに強く訴えかけている。


2014年7月14日月曜日

オルセー美術館展 印象派の誕生─描くことの自由─





国立新美術館で開催中の、オルセー美術館展へ行った。
展覧会が始まって初めての土曜日であったため人は多かったが、入場制限がかかるほどではなかった。私は普段美術館へは平日に行くことにしていたので、土曜のように多様な人々と展覧会をともにするのも悪くないな、と思った。一緒に行った人でなくとも、他の人が口々に語り合う感想を聞いているのは楽しい。

1874年にパリで第一回印象派展が開催されてから140年。19世紀フランスを中心とした充実のコレクションを誇るオルセー美術館から、84点が六本木へやってきた。同時開催中の「バレエ・リュス展」はクセが強いと専らの評判だが、これは反対に、マネやモネなど日本人にも親しみやすい展覧会なのではないかと思う。

展覧会は全部で9章から成る。
散々ポスターに用いられた《笛を吹く少年》や《ピアノを弾くマネ夫人》といった「新しい絵画」としてのマネに始まり、その後はレアリスムや宗教的な歴史画、裸婦像、静物など描写対象ごとにテーマが分けられる。最後は「円熟期のマネ」であり、《ロシュフォールの逃亡》が私たちを見送る。

国立新美術館の以前の展覧会でいえば、一昨年(検索してあれがもう二年前だということに愕然としている…)の「大エルミタージュ展」ほどのボリューム感はないが、分かりやすくすっきりと気持ちのいい展覧会だった。「お行儀が良い」と言えば適切だろうか。


マネの《笛を吹く少年》は今回、この展覧会のポスター、図録の表紙だけでなく様々な展覧会グッズに用いられた。その理由がなんとなく分かったように思う。使いやすく親しみやすいのだ。背景は濃淡の織り混ざるグレー、その中に立つ少年は黒いジャケットと朱色のズボンを身にまとう。その色の塗り方は平面的で、例えば写真館で記念写真を撮ったような、これがアニメーションだったら、少年だけセル画で描かれているような、そんな印象を与える。つまり、人々は躊躇うことなく少年を背景から切り取ることができる。とてもキャラクターらしい。

私は展覧会へ行くといつも気に入った絵のポストカードを買うことにしており、今回はモネの《アルジャントゥイユの船着場》とシスレーの《洪水のなかの小舟、ポール=マルリー》を連れて帰った。一緒に行った人がそれを見て「こういう風景画ってポストカードにとても向いているよね」と言った。確かにその通りで、もったりとした雲や突抜けるブルー、明るい日差しはこのサイズと印刷物にぴったりだ。

絵は額に入れられて飾られているだけでなく、こうして我々の生活の中へ溶け込む。きっと、マネもシスレーも予想しなかった形で。
そんな中で、絵と直接出会ったときに目にしたあの筆跡を、あの質感を忘れずにいられたら、とても素敵なことだと思う。


2014年7月6日日曜日

愛、アムール





久しぶりに、映画を観てこんなにも涙を流した。
『愛、アムール(原題:AMOUR)』は、まさにその名の通り愛の具現化であり、使い古された言葉を使えば究極の愛そのものであった。
ミヒャエル・ハネケは、決して避けることのできない人間の老いと死、そして気高い尊厳を強く美しく描き出した。


「今夜の君は、きれいだったよ」
夫は妻に、いつものように語りかけた。
夫ジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティ二ャン)と妻アンヌ(エマニュエル・リヴァ)。パリ都心部の風格あるアパルトマンに暮らす彼らは、ともに音楽家の老夫妻。その日、ふたりはアンヌの愛弟子のピアニスト、アレクサンドル(アレクサンドル・タロー)の演奏会へ赴き、満ちたりた一夜を過ごしたのだった。
翌日、いつものように朝食を摂っている最中、アンヌに小さな異変が起こる。突然、人形のように動きを止めた彼女の症状は、病による発作であることが判明。手術を受けるも失敗に終わり、アンヌの体は不自由に。医者嫌いの彼女が発した「二度と病院に戻さないで」との切なる願いを聞き入れ、車椅子生活となった妻と、夫は自宅でともに暮らすことを決意する。
当初、時間は穏やかに過ぎていった。誇りを失わず、これまで通りの暮らし方を毅然と貫くアンヌ。それを支えるジョルジュ。離れて暮らす一人娘のエヴァ(イザベル・ユペール)も、階下に住む管理人夫妻も、そんな彼らの在り方を尊重し、敬意をもって見守る。
思い通りにならない体に苦悩し、ときに「もう終わりにしたい」と漏らすアンヌ。励ますジョルジュ。ある日、夫にアルバムを持ってこさせたアンヌは、過ぎた日々を愛おしむようにページをめくり、一葉一葉の写真に見入る。
アンヌの病状は確実に悪化し、心身は徐々に常の状態から遠ざかっていった。母の変化に動揺を深めるエヴァ。それでも、ジョルジュは献身的に世話を続けた。しかし、看護師に加えて雇ったヘルパーに心ない仕打ちを受けたふたりは、次第に家族からも世の中からも孤立していく。
ついにふたりきりになったジョルジュとアンヌ。終末の翳りが忍び寄る部屋で、夫はうつろな意識の妻に向かって、懐かしい日々の思い出を語り出す――。
( http://ai-movie.jp/ より


愛とは何か?正しさとは何なのか?私たちに残される問いは簡単なものではない。
ジョルジュは正しかったのだろう。正しかった。アンヌもそれを望んでいた。なのにその正しさはこんなにも痛ましく、私たちに衝撃的な悲しみを与えるのだ。

この映画で描かれたのは夫婦愛というより、ジョルジュの、アンヌへの愛だ。ともすれば、思うように体を動かせず、家政婦に望まない扱いを受けることになる情けなさ、遣る瀬なさ、羞恥によって自尊心を傷付けられ、そして絶望と自らの死への望みを抱くアンヌに生を強いること、それこそが愛なのだろうか。それとも、やがてジョルジュが下す決定こそが愛だというのだろうか。

「愛とは何か?」
愛と恋の違いだとか、そんな語義的な話をしようというのではない。相手を思い、慈しみ、大切にする心は、結果としてどのような行動を人間に起こさせるのか。
ジョルジュの行動はエゴイズムに因ったと言われても否定はできないだろう。ジョルジュにとって妻を愛するということが結論を出す唯一の理由であって、しかしそれは一般化された愛ではないからだ。

この映画に「介護」という言葉はなんとも似つかわしくないと思うが、特にこの介護という領域において、自己を犠牲にした愛はやがて人間を破壊するのだと思う。受ける者も確かに人間だが、行なう者もまた人間でしかないのだ。それは身体的にも精神的にもいえることで、老いたジョルジュがアンヌの世話をすること、そしてそれがアンヌに望まれていないために感謝を得られないどころか悪態をつかれること、やがて愛する妻が認知においても安定を失うこと…それは単に「妻を愛していたから」出来たことだったと、私はいってもいいのだろうか。



2014年6月23日月曜日

A Farewell to Twitter





ツイッターをやめた。
理由はいくつかあるが、見たくないものを見ずにいられなくなってしまったから、というのが一番大きいように思う。

私がツイッターを始めたのは今から五、六年前、中学三年生のときだった。
mixiが衰退しはじめて次の拠り所を探していたときに、一人の友達がツイッターという新しい場所を提案し、みんなで移行した。教室の入り口で、IDを何にするかなんていう話をしたときの情景を、何故かはっきりと覚えている。

初めは友達と話すだけだったツイッターも、美味しいお店を探したり、素敵なことを書く人を見つけたりするために使えるのだと知り、確かに私の世界を広げた。ツイッターはまた、「友達」の垣根を低くしたと思う。友達の友達は友達、のようなスタンスを許した。直接話したことはないれけどツイートは見ている、という人間を増やした。人と人とのゆるい繋がりを保てる、素敵で便利なツールだった。

しかしその垣根の低さは、容易に人を傷付け、悪態をつき、汚い言葉を並べるようなユーザーを野放しにする他なかった。結局のところ、これだけインターネットが普及しても、画面の向こうに生身の人間がいるということを忘れてしまう人は絶えなかった。また、140字という字数制限は人間の様々な要素を凝縮させた。インターネット的人間関係、自虐、非難、論理性を伴わない悪意の羅列、私にとって「綺麗ではない」ものがあまりにも多すぎた。
私はそういうものを見るのに疲れた。避けようと思っても、湧き出るように生産され放出されるそれらはいくらでも私の視界を濁した。

最近、周りの人が何人かツイッターをやめていった。ある同い年の男の子はその理由を「例えば『○○が楽しかった』というツイートを見たら、この子は『○○を楽しんでいる子』と思われたいんだなあと思わずにいられなくなり、そういう自意識にばかり目がいってしまうようになってつらかったから」だと言っていた。
ある先輩は、「時間の無駄だったから」と即答した。見てごらん、ツイッターやってるのって学生ばっかりでしょう、そういうことだよ。確かにそうかもしれない、と思った。全てがそうとは限らないけれど。

そんな人たちに気持ちを後押しされたのもあって、私もツイッターをやめることに決めた。ツイッターで得られる有益な情報にアクセスできないのは困るかなと思っていたが、今のところそんなことはないように思う。良質で密度の高い情報は、140字という制限を受ける媒体でだけ公開されることなどないというのは、考えてみれば当然であった。コミュニケーションツールとしては、LINEとフェイスブックのメッセンジャーを使う頻度が高くなった程度だ。

情報の取得も、コミュニケーションも、その方法はいくらでもある。
私は自分が好ましいと思う媒体を選びたいと思う。

さようなら@karen_luv、また会う日まで。


2014年5月28日水曜日

アデル、ブルーは熱い色





重苦しいテーマを扱っているではないのに、なんとなく薄暗いものを感じた。その原因を考えると、おそらく、アデルの表情にあったのだと思う。

『アデル、ブルーは熱い色』を観た。映像は人物の顔のアップが非常に多い。一番前の座席で観たので(有楽町最終日最終公演ということもあって、劇場は満員御礼だった)その迫力に圧倒されたほどだ。

それだけ「顔」が重視された映画でありながら、ヒロインのアデルは表情の豊かな少女ではない。いつも陰鬱そうな、気怠そうな顔をしている。笑わないのだ。友人たちと挨拶を交わす時も、その目はどこか遠い世界を覗いている。おそらく彼女が自然な笑顔を見せたのは約3時間という長い時間の中で一度だけ、アデルの家でエマと抱き合った時だけだった。アデルは愛するエマと一緒にいるときでさえ、いつも不安そうな顔をしていた。仕事の話をするエマを見るアデルの目はぼんやりとしていて、悲しみさえ帯びているように感じられる。ホームパーティーをした時も、自分には入り込めない、芸術という固い意識で結ばれた人々の中に入り込めず、エマが他人と楽しそうに話すのをもどかしそうに見つめる。ともに暮らしながら、その人生全てを芸術にかけるエマに憧憬というフィルタをかけて、抱きしめてもなお自分の手にはいらないような、そんな不安定さを感じ、見つめているように見えた。

アデルのエマへの感情は恋ではなく、あの青春時代特有の憧れだったのだろうと思う。憧れといってしまうと過度に限定的かもしれない。安定を求め、堅実に生きていこうと教師を志望するアデルの眼に、確かな未来などなにもない、けれども全身全霊を作品に傾ける青い髪の女性がどうして魅力的に映らないことがあるだろうか。

アデルはレズビアンではない。きっと彼女はバイセクシュアルですらないと思う。学校の階段でベアトリス(?)にキスされたときにアデルは自分がもしかしたら女の子が好きなのかもしれないと思ったのだろう。しかしその前提として、エマとのあの出会いがあったということを忘れてはならない。そういう時、少女は「私、エマに恋をしているんだ」と思いたいに決まっている。

私は映画にしても本にしても自分で感想を書く前にはあまり他人の批評というのを見ないようにしているが、それでも目に入ってきたのが過剰な性描写に関する記述だ。そんなわけでその点に関しては映画を観る前にかなり身構えていたのだが(あまり得意ではないのでウッとなってしまう)観た後の感想を述べれば、全く何の抵抗もなかった。とても自然だった。妙ないやらしさとか、無意味に性的な描写とか、そういうものが全くなかったと思う。いいも悪いもない、ただどこまでも自然だった。彼女たちの生活がそのまま映し出されているのだ。もし仮にあのシーンがなかったとしても別に不自然さはないと思っただろうし、あったからといって違和感を覚えない、そういう流れの美しさだった。
冗長だとは全く感じなかった。彼女たち二人の互いへの愛が描かれていると、そう思った。

私はこの映画がとても好きだった。
妙な押し付けがましさやわざとらしさがなく、繰り返すがとても自然だ。アデルもエマも特殊な人間ではない。ある意味普遍的な若い女性たちの数年間を、派手なフレームをつけることなく綺麗に切り取っている。彼女たちの問題はセクシュアルマイノリティに起因することではない。レズビアンであるというのはエマの一つの特徴に過ぎない。たいした問題ではないのだ。

何にせよレア・セドゥ扮するエマがとても魅力的だ。色素の薄い肌、雑に青く染められた髪、意味ありげに見つめる瞳。そりゃあ、自分の高校生活や将来に疑問を抱いている18歳の少女は惹かれてしまうよなあと思う。
きっと多くの人がアデルに、エマに自分の何かを重ねたことだろう。18歳からの数年間はこんなにも魅惑的で愛おしい。そして私はまだ自分がその中にいるのだということを、忘れずにいたい。





2014年5月21日水曜日

roses



私はバラが好きではなかった。

きっと多くの人が思い浮かべるバラは、「バラ」の香りというより「バラの香り」という香りをまとった存在なのではないかと思う。私にとってのバラもそういうもので、何せ好きな花は紫陽花やかすみ草なので、バラのあの香りの驕った感じが苦手だった。あまりに華美で、高飛車な花だと思っていた。


イスパハンという洋菓子をご存知だろうか。ピンク色のマカロンに、ライチの果肉とバラのクリーム、フランボワーズを挟み、バラの花びらをあしらったもので、ピエールエルメのスペシャリテだ。今年のバレンタインに、ラデュレがハート形のアントルメを作ったのも記憶に新しい。

これを初めて食べたのは高校生の時で、母と行った銀座三越のラデュレのティールームだった。
華やかなケーキだな、と思った。エディブルフラワーが今ほど流行っていなかったし、大きなバラの花びらを載せたマカロンは新鮮に感じた。私がその日このケーキを選んだのはフランボワーズとライチに惹かれたからで、なんだってわざわざバラの香りなんてつけるんだろうと思っていた。
しかしまあお察しの通り、このケーキは本当に美味しかった。今では好きな洋菓子を尋ねられたら必ずイスパハンと答えるほど、私はこのケーキが好きになった。

そして私はその時バラを好きになった。
生花の香りをかぐのではなく、口にするという行為は、それを体全体で受け入れるような、そんな意味を持たせたように思う。
そうなると不思議と花それ自体も愛らしく感じられるもので、高飛車だと感じていたあの美しい花は高貴で上品だと思うようになった。ちなみにバラの花言葉は「愛」や「気まぐれな美しさ」だそうな。色によってまた様々だけれど。

私はガーデニングには詳しくないが、バラは最も栽培が難しく最も奥深い花のひとつだと思っている。多くの人たちが夢中になるのもよく分かる。
間もなくバラの季節だ。今年はどこかの庭園へ、時間を作って行きたいと思う。


2014年5月13日火曜日

azaleas



全ての攻撃は自衛なのではないかと最近思う。
きっと皆、自分に足りないものを得ようとして他人を傷付け、満たされない思いを衝突させて悲嘆に暮れているのだ。人間も、彼らが構成する社会も。

少し前に、ある人がこんなことを言っていた。
「愛することを社会が個人に強制するのはおかしい。」

その人は、このような問題は個々人の自由裁量に任されるべきだという。
私はこう思う。愛は人間を抑制する最も強い力だと。愛されていない、或いは愛されているということを自覚しない人間は社会に、他人に切り掛かる。剣を抜いたままこちらを見つめる。そして社会は、自らを守り調和を保つためその大きな権威に依存する、それが愛だ。
社会という大きな存在が個人に何かを強要することはある意味とても暴力的で恐ろしいことのようにも思える。しかしそれも自らを守るための必死の抵抗だと思うと、なんだかとても愛おしいものに思える。

私は常に満たされていたい。
人を助けられる余裕を、自分のために使ってもあり余る力を、持ち続けていたい。人間が人に与えられるのは、ただその器から溢れ出た愛だけなのだと感じる日々だ。


2014年4月25日金曜日

カズオイシグロ『わたしたちが孤児だったころ』





カズオイシグロの『わたしたちが孤児だったころ』を読んだ。
読了後しばらく言葉を失い、冷めてしまった紅茶を前に必死で何か自分を救ってくれるものを探した。

イシグロが描いたのはある一人の少年が大人になるまさにその瞬間だったのではないかと思う。
ハドソンの探偵業は、幼少の頃アキラとしていたごっこ遊びと結局のところ変わらなかったのだ。仮に彼がその職業で収入を得、人々から羨望の眼差しを集め、英国社交界の中心に立つことになったとしても。

憧れは、時に相手を理想化してしまう。自らの中で形作られたヒーローに、希望や期待や「自分には為し得ないこと」を押し付けて、その偶像を心の拠り所にしてしまう。それが幻想だとどこかで気付いてはいても、それは靄のようにつかみ所のないものできちんと見つめることはできない。もしかしたら、自ら向き合うことから逃げているのかもしれない。
描かれているのはこの靄そのものだ。憧れていたクン警部、思い出の中のアキラ、そしてハドソンの両親。初めからなにか変だと分かっているのだ。一人の警部の力で中国中の平和が実現されるはずがない。仮に両親が誘拐され、クン警部の語る家に連行されたとしても、十年も同じ場所にいるわけなどない。中国人に取り囲まれていた日本兵がアキラである証拠などなにもない。分かっている。分かっているのだけれど、ハドソンは必死になってその靄の中を駆け抜けるしかなかったのだ。

そして少年が大人になるというのは、こうして作られたヒーローを失う時なのかもしれないと思う。或いは、自分がヒーローを失ったことを認める時というべきかもしれない。
ずっと何かおかしいと分かっていたのだから、事実を知らされたときにハドソンが受けるのは衝撃ではない。悲しみ、怒り、幼かった自分の無力さへの遣る瀬なさだ。

我々読者は、探偵というあまり馴染みのない職業の不思議さや、ハドソンが「明らかに目を向けないようにしている」、おそらくそこに存在するであろう事実になんとなく気付いているにもか関わらず、彼に同調する他ないのだ。頭を殴られるような衝撃を与えるのではなく、じわりじわりと我々の心に広がってく失望、それはまるでクロマトグラフィーを経たかのように分離してしっかりと跡を残す。
イシグロの綴る言葉は、一言一句として無駄なものがない。美しく、繊細で、哀しく、愛おしい一人の人生が、この中に流れている。


2014年4月23日水曜日

『アナと雪の女王』




ディズニーは確かに、『魔法にかけられて(Enchanted)』『塔の上のラプンツェル(Tangled)』そしてこの『アナと雪の女王(Frozen)』で新しいディズニープリンセス像を確立したと思う。この三作のお姫様たちは白雪姫、シンデレラ、オーロラ、アリエル、ベル、ジャスミンら、これまでにディズニープリンセスとして名を馳せてきたキャラクターとは、確実に一線を画している。(ただし『魔法にかけられて』のジゼルは映像の半分が実写であり、肖像権と報酬の問題からウォルト・ディズニー社の定義する「ディズニープリンセス」には加えられていないようだ)

元来、ディズニープリンセスとは美しく、上品で気高く、心優しい女性像であった。作品が違えど、彼女たちは常にその美しさで王子に見初められ、命を救われ、守られ、結婚して幸せに暮らしました、と物語は幕を閉じてきた。
『魔法にかけられて』はとても衝撃的な作品だったと思う。あのディズニーが、プリンセスストーリーをおとぎ話として扱い、プリンセスを現代ニューヨークに飛ばして(しかもジゼルはマンホールから登場する)現実世界との違いそれ自体を描く映画を作ったのだ。プリンセスがニューヨーカーたちから「頭のいかれた人」のように扱われる映画を。
そして続くラプンツェルとアナで「男性に守られるのではなく、自ら困難に立ち向かい戦う女性像」を主役に据えた。ラプンツェルはおてんばで、草原を転げ回り、友人は愛らしい犬や猫ではなくカメレオンのパスカル、部屋に忍び込んだフリンを殴って気絶させた挙げ句椅子に縛り上げる。アナは姉のエルサが大好きで、婚約者ハンスの制止も聞かずにエルサを追って一人で吹雪の雪山へと出かけて行く。道中、氷商人のクリストフに助けられながらも、決して彼に頼るようなことはない。この二作に共通しているのは、(『アナと雪の女王』ではそれがメインストーリーではないにせよ)決して一目惚れではなく、困難を乗り越えるうちに次第に惹かれあう二人が最終的に結ばれるというストーリーだ。

『アナと雪の女王』に象徴的なシーンがあった。まず、出会ったばかりのハンスと結婚すると言い張る妹のアナに、エルサが「出会ってすぐに結婚なんておかしい。あなたに愛が分かるの?」と否定するもの。それから、心臓にエルサの攻撃を受けてしまったアナが「魔法を溶かすには真実の愛しかないの」と婚約者ハンスにキスを迫るもの。どちらも、これまでディズニー映画が作り上げてきた「一目惚れ」とその「真実の愛」による男女関係の美しさを空想上のものとして扱う場面であった。しかも、アナが最終的に結ばれるクリストフは王子などではなく、山で暮らす氷商人なのだ。

ディズニーは自らの過去のプリンセスストーリーを過去のものとしてまとめあげ、新しい時代を切り開いた。
これはディズニーによる強い女性像や、男女同権がどうこうというような、そういうものへの強い支持の表明というわけではなく、単に時代に適応した結果なのではないかと思う。かつてのようなプリンセス像を主題とした映画をディズニーが作り続けていたら、きっと現代に生きる私たちは何かしらの違和感を感じたのではないだろうか。

『アナと雪の女王』が主題に描いたのはエルサとアナの姉妹愛だ。愛しい妹を守るために孤独を選んだエルサと、そうとは知らず自分の命を犠牲にしても姉を助けに行くアナ。その完成された美しい愛の中に、彼女たちの自らに関する葛藤、そしてクリストフの人間への愛が交わり、ディズニーの「夢と魔法」に包まれた102分が作られている。映画を観る前にも『Let it go』は何度も聴いていたのに、スクリーン上にエルサが氷の城を作り上げたときには鳥肌が立った。強く、痛々しいほどに美しい彼女自身のような城は圧倒的な存在感を見せた。
これこそディズニーアニメだろう。音楽、CG、テンポ、キャラクターたちの愛らしさ、どれをとっても圧巻だった。

2014年4月16日水曜日

『ミッドナイト・イン・パリ』



ウディ・アレン監督の『ミッドナイト・イン・パリ』を観た。
ゴッホの『月星夜(The Starry Night)』をアレンジして背景に入れ込んだポスターがとても愛らしい。日本で上映されていたのは確か二年前で、友達から良かったと聞いていたのをふと思い出して観ることにした。

余談だが『月星夜』といえば、5月にMoMAがこの絵を内側にデザインした傘を発売するらしく、これが結構チャーミング。黒い傘からちらりと絵が覗くなんて素敵。

さて、この映画のストーリーを紹介したい。
脚本家として成功を収めた若いギルは、婚約者のイネズとその両親とともに愛してやまないパリへ旅行にやってきた。ギルは脚本で莫大な収入を得ていながら、そのワンパターンさに飽き飽きしており、小説家に転身したいと考えて「ノスタルジーショップ」で働く男の物語を執筆中であった。安定した生活を求めるイネズはギルのそんな要望にうんざりしており、旅行先でたまたま出会ったイネズの友人ポールの出現などもあって二人は互いにすれ違い始める。そんなある夜、酔ってホテルへの道を忘れ街中をふらふらと歩いていたギルは、旧式の黄色いプジョーに連れられて社交パーティーに出かける。そこで出会った人々がフィッツジェラルド夫妻、コール・ポーター、ジャン・コクトーだと名乗りギルは驚愕する。彼は1920年のパリへやってきたのだった。

ギルはその後何度かタイムスリップを繰り返すのだが、さらにそこで出会うのは彼の崇拝するヘミングウェイ、パヴロ・ピカソとその愛人アドリアナ、ダリ、ルイス・ブニュエル、マン・レイなど錚々たる顔ぶれだ。ギルは絶世の美女アドリアナに一目惚れし、アドリアナも次第にギルに好意を寄せるようになる。そんなことをしているうちに現世の婚約者イネズには愛想を尽かされてしまうのだが、大好きな雨のパリの街にいながらにしてそんなことはギルにとってたいした問題でもなかったようだ。イネズとの関係の終わり方はあまりにあっけなくて面食らったが、変に延ばしてもこじれた恋愛を描く映画になってしまっただろうしあれが最適だったのかな。

物語の中盤、ギルとアドリアナがさらに過去へタイムスリップする場面がある。1920年代から二人が飛んだ先は輝かしいベル・エポックの時代。オートクチュールを生業とするアドリアナはうっとりした表情で、これこそパリの黄金期、私はここに残ると宣言する。ギルは、そんなことはない、パリの黄金期は1920年代であり、あんな素晴らしい時代はないじゃないかと語るが、アドリアナは聞く耳を持たないのだ。アドリアナにとっては1920年代が「現在」なのだから。

私は懐古主義的な人間なので、この場面にはくすりと笑ってしまった。結局いつの時代も、人間は自分が体験しなかった古い時代に思いを馳せるものなのだ。1920年に帰りたくないとごねるアドリアナに、ギルが「きっとベル・エポックの人々はルネサンスが最高だったなんて言うんだ!」といった感じのことを言うのだが、これこそがギル本人の懐古主義への疑念の発現であり、彼が一歩前に進んだ瞬間なのだろうと思う。現にこの映画のラストは2010年に戻ったギルが、以前出会った、コール・ポーターの曲を流す骨董店の女性と雨のパリを歩き出す映像で終わるのだ。素晴らしい終わり方だ。ギルが彼の人生を続けるにはこうするしかないし、イネズやアドリアナのことはいろいろとあったけれどもここはパリだし雨が降っているし、まあいいじゃないかという気分にさせる。観賞後の気分がとても良い。

さらにこの映画は、ひとまず物語やメッセージ性などを脇に置いても映像と音楽の美しさを楽しむことができる。トレーラーが「朝のパリは美しい」「昼のパリは魅力的」「夕暮れのパリにはうっとり」と語るように、パリの街並みの美しさをこれでもかというほど映し出している。
そしてその背景に流れる音楽も美しく、魅惑的である。コール・ポーターの『Let's Do It』は物語中に彼自身が演奏するシーンがあるのだが、この曲が2000年代と1920年を上手く繋いでいる。1920年にはコール・ポーター本人が登場して社交パーティーで演奏したかと思うと、2010年には骨董店でレコードが流れているといった具合だ。

そういえばポールに対して数回使われた「知識人ぶった」という意味の単語を忘れてしまったのだけど、何だっただろうか。気に入って私も使おうと思っていたのに悲しい。eggheadedではなくて、確かdで始まった気がする…誰か知っていたら教えてください。


2014年4月13日日曜日

『17歳』



フランソワ・オゾン監督のJeune et Jolie"を観た。邦題は『17歳』。東京では、シネスイッチ銀座で昨日まで上映されていた。
とかくフランス語は本当に美しい。気品あるマリーヌ・ヴァクトの気怠そうな唇から溢れる音は気持ちをとても高ぶらせる。この言語をきちんと自分の耳で全て理解したい。今年はフランス語の授業を取らなかったので、映画を観る機会を増やそうと思う。

さてこの映画は、名門高校に通い何の不自由もなく暮らす少女イザベルの、17歳という「美しくて愚かな」時代を描く。17歳になる夏、イザベルは家族で出かけたリゾート地でドイツ人の恋人と初体験を終える。その後彼女は変わっていき、季節が秋を迎えると、SNSで知り合った男性たちと密会を重ねるようになる。相手の男性の死を機に警察がイザベルの家を訪れ、両親に彼女の秘密が明かされてしまう。密会の目的を問われても、金のためでも快楽のためでもないと答えるばかり。


物語のはじめ、イザベルはドイツ人の恋人とのデートに淡いピンクのグロスを塗って出かける。弟に「どう?変じゃない?」なんて聞くと、「娼婦みたいだ」と言われて艶をおさえる。桜貝のような色の唇をした彼女はまだあどけない。
しかし、彼女が顔も知らない男性と会うために出かける時、駅で母親の服に着替えて唇に纏うのは真っ赤な口紅だ。それは少女が思い描く「大人の女性」の象徴なのだと思う。イザベルは、唇を赤く染めることで17という自分の年齢を隠した─あるいは、大人への憧憬、少女である自分との別離を求めたのかもしれない。

イザベルは亡くなった男性の妻に、17歳という年齢は「最も美しく、愚かな」歳だと言われる。もちろんイザベルはまだ若い。無知故の奔放さや自信を持ち、深い森のような目をしながらも、少し中を覗いてみると驚くほど幼いのだ。そしてその揺れるバランスがこの年齢の美しさであり、見る者を惹き付ける儚い光なのだと思う。
彼女の「密会」の目的がなんだったのか、物語の中できちんと言語化して明らかにはならない。しかし、それはきっとこの美しい年齢の女性が、何か刺激的で魅惑的で、普段の自分とは違う女性になれることに誘惑されてしまった、ただそれだけなのだろうと思う。きっとイザベルのような少女は、時が過ぎればそんなことはもうやめて「若さ故の過ちだったのよ」だなんて言う日がいつか来るのだ。



2014年4月12日土曜日

モスクワ滞在記(後編)

モスクワ滞在中の日記、後編です。


頭注
・Университет(ウニベルシテート)モスクワ大最寄りのメトロの駅。単語としては「大学」の意味
Дом Книги(ドムクニーギ)チェーンの本屋
Шоколадница(ショコラードニッツァ)チェーンのカフェ




3月20日
日露双方の学生によるsessionがあった。ペンタゴンの不思議な講堂で、プレゼンターたちが一人十分のプレゼンテーションをした。ロシア人学生はスライドにあまり文字を使わなかった。そういえば、日本人学生の中でも、外大生の世界認識は少し特殊なように感じた。耳にたこができるほど聞いた「globalization」は、多様性(もちろん言語においても)を保持したまま達成すべきものだという認識を私たちは持っている。しかし今日、何人かの学生のプレゼンテーションの中では英語教育の広域化、高度化によってそれは為されるのだという認識が前提として存在していたようだった。もちろんツールとしての英語の利便性を否定することはもはや出来ないけれども、それを非英語話者に強要するのはあまりに暴力的だし私は好まない。日本人が「日本人は英語が下手だから駄目だ」みたいな自虐をするのも嫌いだ。二年前の夏にオビ川の畔で「ロシア語よく分からないので英語で話してくれませんか」と尋ねた私に「ここはロシアだ、ロシア語を話せ」と返したおじいちゃんたちは正しかったと今は思う。(まあ当時は半泣きだったけれども。)
そのあと7階に移動し、昼食をとった。このプログラムのclosing ceremonyがあった。学生でもなかなか入れないらしい7階の講堂は荘厳で美しくて、上から聖歌隊の声が振ってきたときには感動で身が震えた。両国の大使館や外務省の人の挨拶が終わると、各グループからひとりずつ学生がスピーチをした。そしてなんと、学長が全学生ひとりひとりに修了証書を手渡してくれた!本当に嬉しい。威厳ある素敵なおじさまだった。いよいよ明日帰るのだと思うと寂しい。本当にあっという間だった。
夜は大学の近所の劇場に『白鳥の湖』を見に行った。美術館へ行った時も思ったのだが、この国の芸術に対する意識は私が理想としている在り方そのものである。つまり、芸術は大衆に開かれていなければならない。去年の春に森アーツセンターで開催されていたミュシャ展を訪れてから一層強く思っていることだ。平日の夕方、ちょっと近所に出かけるように子どもと一緒にバレエを観に行く。公演終了後、子どもたちがステージへ上がってダンサーに花を渡す。写真撮影も禁止されていないようで、「お静かに」のアナウンスもなし。
ただ一方で、そういう雰囲気のためか、バレエ自体はあまりレベルが高くなかった。見せ場の黒鳥32回転を23回しか回らなかったのは結構残念だった…。しかしたぶんこれはバレエ団の公演ではない、劇場のお抱えダンサーなのだろうか。





3月21日
初日に寮で会った友達に本を頼まれて、友達とДом Книгиへ行った。あの子は翌日ペテルへ行ったのだが、ペテルのДом Книгиには目当ての本がなかったらしい。メトロのチケットも、合ってるのかよく分からないが買えたのでまあよい。相変わらずチケット売り場のおばちゃんも無愛想だった。帰りにШоколадницаでカフェラテを飲みカリフォルニアロールを食べた。ロシアのサーモンは身が厚くて美味しい。ルーブルが余ったので、たくさん迷惑をかけた寮母さんに花束を買って帰った。三色のチューリップ。ロシア的文化の中で私が一番好きなのがカジュアルに花を贈るという行為で、街中にたくさんある花屋が24時間営業なのも分かるくらいロシア人はよく花を贈る。ビニールで巻いてリボンをかけただけのシンプルな花束だ。日本でも最近、青山フラワーガーデンがカジュアルに花を買うという文化の発展に寄与している気がする。贈るというより、「日常生活に花を」と自分で買う用だけれど。私の周りの男の子は「気障な感じがするからなかなか…」という人が多いのだけど、花束を贈るの、とても素敵だと思うので日本でも馴染むといいな。
午後は在露日本大使館へ行った。若手職員の方々との交流パーティーがあったのだが、意外と外大卒の人は少なかった。今日いなかっただけかもしれないけれど。大使館は、日本様式とロシアの生活スタイルが融合したとても不思議な空間だった。
大使館からシェレメチェボ空港まではひどい悪路で渋滞もしており、何人か体調を崩したようだ。どうして片側六車線もあってあんなに渋滞するんだろう…


3月22日
帰国した。昨日は出国手続きをした後、メンバーが次々に体調不良を訴え、かなり凄惨なフライトとなった。車酔いだと思っていたがどうやらノロか食中毒の集団感染のようだった。私は感染しなかったので食中毒かな。グループの子が一人、出国手続きをする前に医務室へ行ったのでモスクワに残ることができたが、出国手続きをしてしまった子たちは飛行機に乗るしかないと言われ、吐き気を訴えながら10時間のフライトを経験するはめになったようだ。最後の最後でこんなことになるなんて誰も思わなかっただろう。もともと私は飛行機が好きではないが、もう当分乗りたくない。
さて、今回の渡航は私にとって二度目のロシアだった。それなりにロシア語を勉強してからは初めてだ。その地域の言語を少し知っているだけで、こんなにも世界の見え方が違うのかと驚いた。前回、ノヴォシビルスクへ行った時はロシア語なんてほとんど分からなかったから、道行く人々の会話も「音」としてしか聞き取れなかった。ただ音として流れて行くだけなのだから、それは別に不快なものではないのだけれど、やはり寂しい。今回、私の僅かなロシア語知識があるだけで、当然だけれど得られる情報量がまるで違うし、相手のロシア人にとても喜ばれた。しかし、投げかけられた文章に、二つ三つ知らない単語が出てくる。早すぎて一部聞き取れなかったりする。その、私が理解できなかった言葉の意味を一瞬で考えなければいけないというのはかなりの労力を要した。もちろん私も何か返さなければならない。ネイティブの先生の授業のおかげか、日本語を介さずに直接ロシア語で思考してアウトプット出来た時もたまにはあったがそんなことは稀である。語学の授業で何度も言われてきたことだが、「正しい返答が出来なければなにも分かっていないことと同じ」なのだ。私はあなたの言ったことが聞き取れているしちゃんと理解しています、ということを示すためにきちんと返答をしなければならないのだ。
一週間という短い期間で、多くの貴重な体験をさせてもらったと思う。今のこの気持ちをバネに、今年度もロシア語の学習を続けたいと思う。ここまでくるとあとはとにかく語彙、語彙、語彙だ。


2014年3月31日月曜日

モスクワ滞在記(前編)






3月16日から約一週間、モスクワへ行ってきました。
日露青年交流センターによる派遣プログラムで、日本全国から大学生100名が参加しました。せっかくなので(?)、滞在中の日記を載せます。

頭注
МГУ(エムゲーウー)モスクワ国立大学
・ГЗ(ゲーゼー)モスクワ大の学生寮
Медиа Маркет(メディアマルケト)大学のそばのショッピングモール



3月16日
飛行機の到着が一時間遅れる。11時間のフライトはきつかったが、ひたすら寝ていたらどうにか着いた。隣の席の日本人男性が前の席のロシア人女性と喧嘩していてだいぶ迷惑を被った。アエロフロートはS7よりはずっと綺麗で、乗客は私たち以外はほとんどロシア人だった。飲み物の注文をロシア語でしたら、一言なのにCAさんに喜ばれた。嬉しい。到着してからは、20人近いメンバーの荷物が届かず、シェレメツェヴォ空港で足止めを食らう。かなり体力を消耗していたので立っているのもやっとだった。ようやくГЗについたのは22時半で、日本時間だともう夜が明ける時間なのでさすがにきつかった。少なくともここ数年で一番体力的にこたえた気がする。体力的な疲れのせいもあるだろうが、とても寂しいし既に日本に帰りたい。というか湯船に浸かりたい。
大学の友達が今日までГЗにいて、明日の朝ペテルに発つというので会いに行った。元気そうで良かった。日本でしていたのと同じように、なんだかよく分からない話をしていたら元気も出てきた気がする。友達は偉大だなあ。




3月17日
バスでモスクワ市内を観光した。Весна не за горами(春はすぐそこ)という雀が丘に最近突然現れたらしい巨大モニュメントが気に入った。しかしまあ気温は氷点下なのでたぶん春はまだこない。アヴァンギャルドのあのкнигиポスター風に写真を撮った。気に入っている。
ロシア語の教科書を読んで自分の頭の中に作り上げていたモスクワの地図が、色を得て形を得ていくのはとても楽しかった。点と点が繋がって線になるってこういう感覚だろうなと思う。МГУの学生が学内を案内してくれたが、あまりに広いので疲れた。大学というか一つの街だ。ロシア人はなぜあんなに足腰が強いのか。
17時から講堂でのジャズコンサートへ行った。チェロ二人とピアノ、エレキギター、ドラムという構成で、この中にエレキギターが馴染めるものなのだなあと感心してしまった。音楽のことは全く分からないけれど。チェロのおじさんが熱心に曲の説明をしてくれていたが、半分以下しか理解できなかった。如何せん音楽分野の語彙が少ない。せめて受動語彙は増やさないといけない。しかし音楽は言語の違いなどを考えずのんびりと楽しめて良かった。楽器ができる人は素敵だと改めて思う。
夕食後Медиа Маркетの中に入っているАшанというスーパーへ行き、祖母へのお土産にマトリョーシカを買った。ナイーブや洗剤のアタックなんかが700ルーブル(約2100円)で販売されていた。パッケージもそのままだしどう見ても転売だが、Made in Japanなんて書かれてブランドイメージで売るような販売の仕方だった。日本の洗剤がロシアの硬水で実力を発揮するのかは謎だ。ともあれ、現金をほとんどUSドルで持ってきていてまだ両替出来ていないので、早く銀行を見つけたい。





3月18日
1624教室でМГУについての講義があった。アジアアフリカ学部の学生が日本語でやってくれた。木製の講堂はとても素敵だったし、机に相合傘の落書きがしてあるのを見てなんだか微笑ましくて笑ってしまった。こういうのは万国共通なのかな。
講義のあと、28〜24階にある地球博物館を回った。そこの職員がガイドをしてくれ、ボランティアのロシア人学生が日本語通訳をしてくれたのだが、如何せん話の内容がツンドラ地帯の形成についてとかなので単語が分からず困っていたようだった。事前に内容を教えてあげればいいのになあ。私は巨大な斜方硫黄の標本を見て、硫黄はсераというのか〜なんて思いながら見ていた。この博物館が果てしなく広く、私を含む女子メンバーが数人脱落して部屋で休むことに。
一時間程度の休憩後、トレチャコフ美術館へ。何人か気に入った画家の名前を控えたので、本屋に行く時間があったら画集みたいなものを探したい。特にПукирев В.В.の《Неравный брак(不平等な結婚)》Крамской И.К.の《Неизвестная(見知らぬ女)》、《Лунная дочь(月の娘)》は素晴らしかった。『見知らぬ女』は見たことある人多いのではないかな。ロシアにそういう文化がないのか、そもそも日本特有の文化なのか分からないが、あまり絵のポストカードを売っておらず、気に入った絵は一枚もカードになっていなかったので美術館の図録を買った。装丁も立派で解説のページも素敵な図録なのでとても気に入っている。売店のおばちゃんに「ロシア語で書いてある方(英語版もあった)の画集をちょうだい」と言ったら隣にいた引率の教授に「Русская версия(ロシア語版)と言えば済むでしょ」と言われてしまった。厳しい。версияという単語を知らなかった。生活に必要な語彙が全く足りない。
グループの友達が昨日知り合ったという、МГУに留学中の早稲田の先輩にАшан方面へ連れて行ってもらった。最近Университетにできたばかりの丸亀製麺で夕食を食べた。毎日食事をしている学食が、食べられないほどまずいわけでもないが決して美味しくもない食事しか出されない(しかもメニューがほとんど変わらない)ので、うどんが感動するほど美味しく感じられた。ロシアン寿司もでていたが、米は日本米だし、うどんや出汁も全部日本から輸送しているみたいでとにかく嬉しかった。緑茶も飲めた。店内の電化製品もみんな日本製だった。みんなで延々と記念撮影をしていたら隣の席のロシア人女性に笑われてしまった。(一応「嬉しすぎてつい…ごめんね」みたいな釈明をしたら「いいのよ続けて」と言われた。笑う。)まだ日本を出て二日や三日しか経っていないなんて信じられない。そういえば大学のそばのСбербанк Россииで両替ができるらしい。気付くのが遅すぎる。明日にでも行きたい。





3月19日
バスでクレムリンへ行く。−5℃の吹雪の中屋外視察はさすがに笑うしかない。昨日かなり暑かったので今日は帽子を被らなかったのだが失敗だった。そもそもモスクワに手袋を持ってくるのを忘れた。寒すぎてカメラのシャッターが切れない。午前中はとにかく寒かった記憶しかない。本当に凍死するのではないかと思った。ムートンブーツを履いていたことだけが救いだった。ありがとうUGG、ださいなんて言ってごめんね。
そういえば7歳くらいの子どもたちが、私たちが寒い寒い言うのを真似して「サムイー!サムイー!!」と言ってた。可愛かった。もっと良い日本語を覚えてほしかった。12歳〜くらいの集団もいたのだけど、やたら私たちの写真を撮るし、手を振ってくるし、彼らはモスクワの子ではないのだろうか?日本人、というかアジア人ってこの辺でもそんなに珍しいものだろうか。動物園の展示動物になった気分だった。しかしみんな好意的で良かった。
19時から理系学部の学生が私たちのためにクラシックコンサートを開いてくれた。ショスタコービチも一曲演奏してくれた。意外とフランス人作曲家の曲が多かった。私はクラシックはバレエ音楽しか分からないので、帰国したらもっといろんな曲を聴きたいと思う。やはり知っている曲の方が実際の演奏を聴いた時の感動も大きい。物理学部棟はとても素敵だった。やっぱり木製の柱は良い。
だいぶ疲れが溜まってきたので早く寝よう。湯船に浸かっていないので足の疲れが全くとれない…


2014年3月14日金曜日

河口湖




旅行の素敵なところって、いつもと違う場所で、いつもと違う話ができることだと思います。なんでしょうか、東京と違う景色が、そんな気分にさせてくれるのです。

名所をたくさんまわる旅行より、のんびりとぶらぶらと歩きながら、一緒にいる人といつもはしないような話をする時間が好きです。


先日、山梨は河口湖へ一泊遊びに行きました。
ガイドブックやサイトだけを見てルートを組む、みたいなことがあまり好きではないので、行ってみて良さそうなところがあったら立ち寄ろう、という旅行でした(そういえば年明けの箱根もこんな感じだった)。河口湖なら、新宿から一時間に一本くらいバスが出ていますしね。


ひとつだけ決めていた目的地は河口湖オルゴールの森
箱根にあるガラスの森に行ったことのある方は、あんな感じを想像していただけるといいと思います。庭園と展示館、ショップ、みたいな感じ。本当に作りが似ているし名前も同じパターンなので今調べたら、両方ともUKAIというグループの施設のようです。

ここはそもそも河口湖の観光情報サイトかなにかで見つけたところで、そんなに広いわけではなさそうだしあまり期待していなかったのですが、本当にいいところでした。
まず、オルゴールの森といっても展示されているのはオルゴールだけでなく、オルガンやオートマタ、オーケストリオンなど幅広いのです。どれも素晴らしいものばかりで、幅13mのダンスオルガンは見た目もさることながら演奏もものすごい迫力ですし、ドイツ製の可愛い手回しオルガンは実際に自分で音を出すことができます。一定のスピードで曲を演奏するがなかなか難しいのですが。タイタニック号に搭載される予定だったオーケストリオンなんて、なんでここにあるんだろう…なんて思ってしまいます。
オートマタは愛らしいテディベアのものから、フルートを吹く少年や小鳥に歌を教える少女のものなど多様で、そしてどれも実演して見せてもらえます。ビスクドールというものはそもそもなんだか狂気のような雰囲気を感じるのに、それをオートマタにするなんて、一体どんな人が作ったのでしょう。
それから、庭園にはたくさんのバラが植えられていて、四月の終わりからはその美しさも楽しめるようです。ピークは六月だとか。バラ庭園は、園芸誌でも特集されるくらい立派なよう。ミュージアムショップにバラのものが多かったのもそのためですね。私はバラのジャムを買って帰りました。驕った感じのない、可愛らしい香りのジャムです。

ここがどれくらい素敵だったかというと、観光は二人ともこれで満足してしまって、翌日はぶらぶらして帰ったくらいなのです。
バラの咲く季節にまた行けたらいいな。



そういえば、私のOLYMPUS PEN lite E-PL3がすっかり不調になってしまって、どうやらレンズの問題らしいのですが、シャッターがおりなかったり撮れてもパソコンに読み込むとどの写真もひどいピンぼけだったりします。
16日からモスクワへ行くのに修理は間に合わないし、本体も古いのだからいっそE-PL6を買おうかとも迷うところでなかなか決まらないので、さしあたってNikonのD5000を持って行くことになりそう…あんなの首から下げて歩いてたら首がもげてしまいますね。ただ記録するだけならiPhoneのカメラでも十分かなあとか、いろいろと迷うところです。

こんな大学に通っておきながら言うのもなんですが、私は飛行機が怖くてあまり外国に行きたいという気持ちがないというほどなので(行きたいし現地に着いてしまえば楽しいのだけどそれ以上に飛行機が怖い)、アエロフロートで直行なんて今からだいぶ精神を削っています……


2014年3月9日日曜日

カズオイシグロ『遠い山なみの光』







カズオイシグロ作、小野寺健訳の『遠い山なみの光』を読みました。

原文の『A Pale View of Hills』が出版されたのが1982年、そしてこの日本語訳は84年に『女たちの遠い夏』という邦題で筑摩書房から刊行されました。(その後92年に邦題が『遠い山なみの光』に変更。)

故郷の長崎を去りイギリスで暮らす悦子の回想として語られる、戦後間もない長崎での生活は幻想的なベールに包まれています。
イシグロは五歳のときにイギリスへ移住し、日本での記憶はほとんどないといいますからこれは彼が考える「日本人らしい感性」なのでしょうが、それはあまりに現代の我々のものとかけ離れていて、不思議な違和感を覚えながら読むこととなりました。

例えば、佐知子という女性ですが、彼女はちょっと「おかしい」人に見えるのです。あてにならない、何度も裏切られた男性に自分と幼い娘の未来を託したり、友人の悦子に当然の如くお金の無心をしたり(受け取ってその場で確認もせずお礼も言わず、自分のもののように鞄にしまう)、悦子に頼んで紹介してもらったうどん屋での仕事を本来自分がするべきでない卑しい仕事のように蔑んだり、娘が大切にしていた猫をその子の目の前で川につけて溺死させたり。何かがずれている人のように思えます。しかし作中での周りの人間の彼女への態度を見てみると、決してそういう風には思われていないようなのです。
悦子は比較的、私たちがイメージするあの時代の日本女性像そのものなので、この二人の女性の関係性がとても不思議に思えます。

しかし二人の女性はとても仲が良いように思えて、実は全く会話を成立させていません。互いの話を聞いていないのです。
双方とも相手に自分の主張をぶつけるのみで、悦子は現在の自分の肯定を、佐知子はアメリカへ行くことを選んだ未来への希望を語るという違いこそあれ、不安定な時代での自分の正しさを信じたいのだというなんだか悲しい意志が感じられます。

そしてこの本全体にかかっている不思議な霧のようなベールの理由に気付くのです。

登場する人間たちは全員が互いにこのような関係性の中にいる。

佐知子の娘である万里子、悦子の夫や義父、そして娘たち。彼らは誰も相手の話を聞いていないのです。言葉に応えてはいるのだけど、会話が行なわれているように見えるのだけど、結局彼らは最後まで、自分の信じていたものしか信じないのです。あの不思議さの理由は「日本人らしさ」という特徴の問題ではなく、きっと世界中に普遍的に存在するものだったのです。誰しもが傷つき、どうにかして立ち上がろうと必死だった激動の時代の、緩やかな抵抗を描いたのではないでしょうか。



この本の、特に会話の部分を読みながら、私は仏劇作家ジョルジュ・ポムラの『赤ずきんちゃん Le Petit Chaperon rouge』を思い出さずにはいられませんでした。例えば、以下は少女赤ずきんが祖母の家を訪れ、祖母の振りをするオオカミと会話する場面です。

しばらくして少女は(家の)中に入った。オオカミはおばあさんのベッドでシーツの下に隠れていた。
「あなたに言いたかったんだけど、おばあちゃんの家もあんまりいい匂いしないわよ。少し閉め切っていたような匂いがするわ。空気が澄んでいる時はもう少し頻繁にドアを開けた方がいいんじゃないの。外の方が本当に空気がいいわよ」
「本当ね、でもこっちへおいで。早く私にキスして欲しいんだよ。二人だけで落ち着いていられるんだから」
「まず私のフランを置きに行くわ。おばあちゃんのために作ったフランなのよ、お母さんがそうしろって言ったから」
「あらそうなの」
「じゃあまあ、それでもそこの腰掛けに座るわ」
「あなたのおばあちゃんに近づきたくないかのようね」
「そんなことないわ、ここまで来るために外を歩きすぎた足のせいで、少し休んでいるだけよ」
「ベッドの上の私のそばに座った方がもっと足を休められるはずよ」
「おばあちゃんのためにこのフランを作るように私に頼んだのはお母さんなの。フランの一部分でもいいから食べてくれて、おいしいと思ってくれるといいんだけど。お母さんは私が一人でフランを作れるとは思っていなかったの。彼女は私が本当に小さいと思っていて、結局人生において責任を負うことができるとは思っていないんだと思うわ。お母さんたちっていうのはいつだってこんなじゃない?まったく疲れちゃうわ」
「(待ちきれず)もっと私の近くにおいで」
「(ますます怖がって)私のお母さんと私はすごく気が合うんだけど、時々彼女を堪え難くなるの。私のことを子どもだと思っているんだもの」

原文はフランス語なので上記は稚拙ながら私の訳です。
何しろ万里子がこの少女に思えて仕方なかったのです、奔放なキャラクターがとても似ていて。
この場面では、空腹に耐えきれず早く赤ずきんを食べてしまいたいオオカミと、祖母の異変をなんとなく感じたであろう赤ずきんの会話にならない会話が描かれているのですが、赤ずきんは逃げるでもなくなんだか不思議な話のそらし方をして、最終的にはオオカミのそばへ自ら行ってしまうのです。



相手の話を耳に入れないことで行なう抵抗、主張、そういった類いのものを、私たちは幾度も目にしてきたはずです。共通していえることは、それらはいつも苦しんでいる人間が発する哀しい信号だということです。

邦題の『遠い山なみの光』はこの本の表紙に記されるべき名前としてふさわしいものだったと確信しています。
戦後の長崎で淡い光を求める人々と娘を失ってイギリスで暮らす悦子の、懸命な姿が丁寧に描き出された、美しい本でした。




2014年3月1日土曜日

ぐりとぐら展



松屋銀座で開催されている「誕生50周年記念 ぐりとぐら展」を見に行きました。

『ぐりとぐら』は私の大好きな絵本ベスト3には入る絵本で(ちなみに他はバムケロシリーズと『うさぎのくれたバレエシューズ』)、小さい頃眠る前に母によく読んでもらっていた記憶があります。

展覧会にはかなりの数の原画と初版本などが展示されているのですが、どれもその状態の良さに驚かされました。とても大切に保存してあったのだということが伝わってきます。
すこしアミューズメント的な空間構造になっていて、子どもたちがとても楽しそうでした。

50年前にはもちろん今のようなデジタル原稿はありませんから、ぐりとぐらは全て絵の具(特に記載はなかったけれどポスターカラーのように見えました)で描かれています。
原画を見て意外に思ったのは、塗りもざっくりしていて、大胆にホワイトを入れたり失敗したところに別の紙を重ねたりしているのだということでした。まるで迷いながら描いているような。私の周りには下絵が出来上がったら変更はしない人が多いので、こういう描き方も出来るのだなあと思いました。原画をそのまま出さず、印刷を前提としている故かもしれませんね。

物語を書いている中川さんは保育士をなさっていて、『ぐりとぐら』がどうして生まれたのか語る中で「私は若い子が大好きでね、その子たちを一番可愛い状態にして見られるのがこの仕事の醍醐味だと思いますよ」と言っていたのが印象に残っています。たくさんの子どもたちを育ててきた、本物の母性だなあと。

『ぐりとぐら』と言えば、誰しも一度はあのふわふわのカステラに憧れたことでしょう。
絵が写実的とか、そういうのではなくて、とにかく美味しそうなのですよね。ぐりとぐらが紐でくくって運んだ大きなたまごから出来上がる、黄金色のカステラ。たくさんの人が再現レシピを考案していますが、やっぱりあのカステラにはたどり着けません。
なぜって、これが絵本だからですよね。薄力粉がどうとか焼き時間がどうとかそういうのを全部飛び越えて、私たちにただ理想的な、あまりに強力な「美味しそう」という印象をぶつけてきているからなのだと思います。
(ちなみに私は宮崎駿監督作品に出てくる食べ物にもよく同じ印象を受けます。『ハウルの動く城』で城に入ったばかりのソフィーがハウルやマルクルと食べる朝食の目玉焼きとベーコン、『千と千尋の神隠し』でハクが千尋に食べさせるおにぎりとか。)

『ぐりとぐら』シリーズは七冊の絵本とかるたが出版されています。私は一冊目の『ぐりとぐら』しか特に覚えていなかったのに、驚いたことに原画を見ていたら全て思い出したのです。それも、母に絵本を読んでもらっている場面まではっきりと。
母は幼い私たちに「八時までにお布団に入ったら絵本を読んであげる」と約束していて、毎晩私と弟でそれぞれ好きな絵本を持って布団に飛び込んだものでした。きっとこの時間に『ぐりとぐら』シリーズも何度も読んでもらったのだろうと思います。しかも子どもなんて大人しく話を聞いているわけもなく、「それはこの方がいいのにねえ」とか「すみっこにうさぎがいる」とかいろいろ言うので全然話が進まないのです。毎日私たちが何冊も絵本をリクエストするので、「もう疲れちゃったよ」と母が言うと「じゃあ私がお話ししてあげる!」と私がその絵本のキャラクターで創作ストーリーを作って語っていたとかなんとか。

自分がこうして絵本を見て当時のことを思い出せたということはやはりとても嬉しかったのです。あんな幼い子どもに毎晩延々と読み聞かせをさせられた母の労力は決して無駄ではなかったのですね。笑

きっと私も自分の子どもにたくさんの絵本を読み、その中には『ぐりとぐら』も含まれているのでしょう。



2014年2月14日金曜日

honesty





これまで自分が正しいと思ってきたことが否定されるのはとても恐ろしいことです。それも、議論の末の否定ではなく、自分がそれまでと違うコミュニティに入ることで、また、違う人と深く接することで、彼らの「常識」にあっけなく否定されるのです。

私は中学高校時代を東京の片田舎の女子校で過ごしました。今思えば、中高というのはとても閉鎖的な空間で、私たちはそこで守られていたのでしょう。もちろん、当時はそんなことには気付かなかったのですけれど。
もうすぐ私が高校を卒業して三回目の春です。大学生になって三回目の春でもあります。この二年間、私は自分が「大学生」に染まらないように必死でした。大学も、大学の友人も好きですが、所謂「大学生」というものにとても抵抗感があるのです。
私にとっての正しさを作り上げたのは中高の友人と教師、そして両親祖父母でした。大学生らしさというのは、その正しさと対立するのです。友人のために尽くすこと。秘密を守ること。何かの目的に向けて全員で全力を注ぐこと。酒、煙草、性の排除。などなど。日頃こんなことを言葉にして意識しているわけでは全くないのですが、これが私の思う正しさでした。そしてそれが今、否定されているのです。

きっと私が友人にこのような話を相談されたら、今あなたはそこにいるのだからそのコミュニティの正しさに従う方が良いのではないかと答えるでしょう。客観的に見たら、そう思うのです。でも。今。それは嫌だと思って、机に向かっているのです。

結局のところ、社会のどこへいっても通じる唯一の「正しさ」というものは存在せず、故に私たちは「何が正しいか」ではなく「誰に正しいと思われたいか」を考える他ないように思います。私は誰に正しいと思われたいのかと考えると、何人かの顔が思い浮かびますが、その人々の中で既に正しさが一致していないとしたら。しかもそれが、とても重要なことについての認識だとしたら。
こんなことをしたら、あの人は悲しむだろうか。呆れるだろうか。でもそれが正しいからそうするべきだと、他の誰かは私に言うのです。

とても怖いのは、慣れることです。「まあいいか」と思うようになってしまうことです。最終的な結果がどうであれ、そんな風に流されてしまうのは絶対に嫌なのです。それが嫌で、必死で抵抗を続けているのです。



(写真:2013年1月、丸の内にて撮影)

2014年2月9日日曜日

a think about Gender equality




先日、友人がFacebookの投稿でこんなことを書いていた。

「大学の授業で、教師が日本における女性差別について語った際、日本に未だそのような差別があると前提にしていたのを疑問に感じた。私は日本に住んでいて差別を受けていると感じたことはなく、むしろ女性が権利を振りかざしているように思うことすらある。差別というのは嫌な気持ちになった程度ではなく生活に支障を来すものであり、『日本の女性は差別されている』と主張する女性は差別というものを甘く見すぎである。日本における女性差別の例としてしばしば国会議員の女性の割合が挙げられるが、職種によって男女の偏りが出るのは当然のことで、男女半々でなければ平等でないなどという考えはおかしい。」


彼女はジェンダー論の授業の後にこの投稿を書いたらしい。ジェンダー論を専門とする教授なのだから、その見方は職業的観点からするとまあ妥当であるとは思う。概してジェンダー論とは女性が弱い立場に立っていることを前提としているのだし。

彼女の言う通り、人数が男女半々でなければ平等ではないというのは全くの誤りであると思う。彼女が例にとった国会議員について言えば、被選挙権は男女等しく与えられているし、制度上女性の立場を弱めるような要素はない。
職種により男女比率に差が出るのは仕方のないことであり、それはこの社会を構成する人間一人ひとりが自分の望む職業を目指した結果として妥当である。人数に拘ると「男女比率を一定にしなければならないので女性であるあなたは国会議員の職に就きなさい」などというようなメッセージが暗に発せられる可能性も無きにしも非ずだ。それに、「政治に女性の新風を!」みたいなことを言う人は多いのであって、それはつまり「男女平等」からはかけ離れた意識があることを意味する。最近、男女比率維持のために女性枠のようなものを作る企業などの団体も見受けられるけれども、それもまた「平等」という観念からは著しく外れているのではないか。

この問題について話すとき、考えなければならないのは「男女平等とは何か」、そして「我々はどのような社会を目指すべきか」ということだ。もはや「平等」という概念が形骸化し、ただ自らの主張の盾として利用する人々も散見されるからである。
私は、「男女平等」とは性別に関わらず自らの望む道を選べることであると思う。決して男女が同じ職に就くことではない。それは個々人が希望したことの結果であるべきで、目的と取り違えてはならない。
そして私たちが目指すべき社会とは、「個人の希望を許容できる寛大な社会」ではないだろうか。つまり、制度的に大きく自由が認められており、個人が自分の望む選択をできる社会。必ずしもそれぞれの職種における男女比率が等しくないかもしれない。けれどそれでいいと思う。「平等」はそこでこそ実現する。

冒頭の彼女の主張に欠けているのは、私たちが「平成生まれの」「若い」女性であるという事実への考慮だと思う。実際、私たちの世代でまわりを見渡しても、制度的にも人々の意識的にも女性差別は見受けれられないということには私も同意する。むしろ社会は若い女性にとても優しい。
一方で、現在教授職についている人々は、寿退社を当然してきた世代の人間である。世代差というのはやはり大きい。彼らは「男女が平等ではない」社会(それは必ずしも悪しきことではなく、ただ強い男性、恭順な女性を理想とするような文化である。繰り返すが私はそれが悪いとも後進的だとも思わない。ただ「そういう文化」であっただけである。)で育ってきたのだから、彼らにとって当たり前のことは私たちにとってのそれと全く異なるのだ。(そして付け加えるなら、人間は年を取ると自分の考えを根本的に変化させることがなかなか困難になる。もちろんプライドもあるだろう。最近よく思うのだが、今回の話に限らず、上の世代の人を言い負かそうとするのはやめた方が良い。あまり良い結果を招かない。)

そろそろ私たちは男女の身体差というものを認めなければならないと思う。人権という意識が拡大し、男女平等が叫ばれ、いくら制度上男女が等しく扱われるようになっても、身体差というものは依然として存在する。社会が制度的に成熟しても、私たちは生物として進化したわけではないのだ。「とにかく扱いを完全に同じしなければならない」という意識は非合理的だ。とりわけ、やはり「出産」という存在は大きい。出産するということは近年あまりにも軽視されているように感じるし、仕事を続ける上での足枷のような扱いを受けるのはおかしいのではないかと思う。子どもが生まれなければ私たちは種として断絶してしまうということをお忘れではないだろうか。

もちろん、「産まない」という選択肢もある。それは女性個人の自由である。そして「産む」自由もある。さらに言えば結婚するしないも自由だし、パートナーが異性でも同性でも良い。
重要なことだが、これらの選択は個人の理念にのみ起因し、公共の福祉と衝突しない。そうであるのに、他人の選択に口を出すような理念のぶつけあいはあまりに非生産的ではないだろうかと、ずっと思っている。(しかし私のこの主張もそれに含まれるひとつだという矛盾に頭を悩ませながら、今日は眠ろうと思う。)


2014年1月11日土曜日

『永遠のゼロ』



映画「永遠のゼロ」を観ました。作品に戦争というものを含む以上中立を保つのはとても難しく、そのバランスが「風立ちぬ」はとても上手かったのだなあと思いました。何年か前に百田尚樹の原作は読んだもののあまり内容は細かく覚えていないこともあり、原作は関係なく映画単独としての感想を少し書きます。内容についての記述がありますのでこれから観るという方はご注意願います。


まず、三浦春馬演じる健太郎とその姉の必要性がほとんど感じられませんでした。彼は映画のストーリーの中では宮部に並ぶ主人公でありながら、部外者感があまりにも強すぎる。彼の感情を介入させることでむしろ話の深みが削られている。というのも、主題である宮部久蔵(岡田准一)と彼の間に具体的な関係性が存在しないのです。単に孫であるというだけ。宮部は戦死しているので当然ながら彼らの間に面識はなく、例えば写真であるとか直筆の記録であるとか、そういう遺品を健太郎が手にしたわけでもない。司法浪人である健太郎が宮部について調べ始めるのは、フリーライターである姉にアルバイトとして手伝うように言われたからです。そしてその姉の動機も、戦後60周年記念にパイロットだった祖父についての本を出版したら売れるのではないかという不純なものなのですよね。そんなわけで、この姉弟が宮部の話に対してとるリアクションがとても不自然に見える。客観的に彼らの感情を追うと「ネットで検索して出てきた戦友会に手紙を送って、返事をくれた人たちに話を聞きに行ったら、私たちの祖父を褒めてくれてなんだか嬉しい」の域を出ないような気がするのです。(ついでに、当初の目的は「本の出版」でありライターを本職とする健太郎の姉が、話を聞きながら一度もメモをとったり録音したりしなかったのが少し気になりました。)

それから、戦時中の愛や友情やプライドなどといったものをすべて現代の価値観で解釈してしまったこと、それが一番残念でした。これはまた、姉弟の存在が余計だったと感じさせた最大の要因でもあります。宮部が妻に「必ず生きて帰ってきます、腕を失くしても、足を失くしても、例え死んでも生まれ変わってあなたのもとへ帰ってきます」と言ったという話を聞いて、健太郎の姉が「祖父は妻と子どもを愛していたのですね」と言うのですが、そんなことは言わなくて良かったと思うのです。単純化。あまりに短絡的。話をした井崎という老人が「あなたたちの言葉で言えばそうかもしれませんね」と返しますが、そこにある全肯定ではない理由に彼女は気付きません。時代が変われば、特に戦時中と今では、社会背景が違い、環境が違い、人々の間に共有されている道徳も美徳も違い、当然同じ言葉でも含むものが変わります。それを彼女のこの一言が全て殺してしまった。単に夫婦愛や親子愛を描きたかったのなら良いのかもしれませんが、零戦や特攻を映画の中心に据える以上それはリスクが高すぎます。

また、結局宮部の特攻についての記録は何も残っておらず、且つ誰の記憶にも残っていないのに、最後のシーンでは健太郎の妄想(というと聞こえが悪いですがそういうほかない)で宮部の敵母艦への特攻を成功させるのです。ここまでは誰かの記憶であったのに、急に完全なフィクションになってしまう。しかも戦友たちではなく、毎日をだらだらと過ごす二十六の司法浪人の妄想。ちょっと、何か、それは違うだろう。彼の中で組み立てられた祖父の理想像に過ぎないものを、よりによってラストシーンにするなんて。ここでの岡田准一の表情が素晴らしかっただけにもったいないなあと思いました。


しかし、戦時中のシーン(つまり回想録)はとても良く出来ていたと思います。宮部が特攻の前衛に失敗し、教え子たちが敵機にたどり着く前に撃ち落とされてしまったことを、犬死にすべき人間ではなかったのだと景浦に訴える場面。宮部の気迫も、ライバル視していた宮部に(おそらく)同情を感じた景浦のうろたえる表情も素晴らしかった。何度も涙を誘われました。

どうしても「風立ちぬ」と比較してしまいますが、この時期に公開したのだから制作側もそれは理解しているのでしょう。今回映画を一緒に観た人が、「風立ちぬ」はあれ以上飛行機愛を描くと戦争賛美のようになるし、かといって戦争についてあれ以上触れないと次郎の飛行機愛が伝わらないので、そこのバランスがとても上手くとれていたと話していたのですが、まさにその通りだと思います。バランス。戦争、非常に難しいテーマです。それを主題にせずとも、持ち出した時点で何かしらの強いメッセージを発してしまう。「風立ちぬ」は次郎が戦争についての見解を語らないことで、ある意味上手く逃げていたのだろうと思います。何か語れば、どうしても矛盾を孕んでしまう。彼はただ飛行機を愛していた。それで良いのです、とても美しい映画でした。

まわりの友人たちは「永遠のゼロ」を絶賛している人が多いので、このようなことをブログに書くのは躊躇われたのですが、私の感想としてはこのような感じでした。
このブログ、私のツイッターからのアクセスがほとんどなので、bioにこっそりアドレスを載せているだけなのに意外と見ている人が多いことに驚いています。もし良かったら、読んでいるよと教えてくださいな。

(写真:一月上旬、神戸市内にて撮影)